コリント教会には分列があった。
「私はパウロに、私はアポロに、私はペテロに、
私はキリストに」という有り様であった。
これに対してパウロは言う。
「パウロが、あなた方の為に、十字架につけられ
たのか?」と回答した。
私達は、十字架に付けられたキリストを、宣べ伝
えている。
「十字架の言葉は滅ぶる者にとっては、愚かです
が救われる私達には、神の力です。」
ここから「新約聖書1日1章」(榎本保郎著)です
神の子が捕らえられ、十字架にかけられ、殺され
てしまう。そんな者が救い主なんて…それが
ユダヤ人の判断であり、つまずきだったのである。
又、ギリシャ人の考えからすれば、神が人間の姿
をとって、この世に生まれてくる…そんな、
ばかげたものがあるか。
しかし、キリスト教の信仰は、どこまでもイエス
の十字架を私達の救いの為の事実として受ける所
から始まる。
キリストの福音は、自分が、それに不服であって
も、理解できなくても事実のおとずれなのである
私達が、それを
理解しようとするのではなく、それを承認して
いく事である。
「私は知者の知恵を滅ぼし、
賢い者の賢さを、むなしいものにする」
「ユダヤ人はしるしを求め
ギリシャ人は知恵を求める
しかし、私達は十字架に付けられたキリストを
宣べ伝える」
パウロはコリント人へ言う。
「兄弟達よ、あなた方の中には、人間的には
知恵がある者は多くなく、身分の高い者も多くは
ない。それなのに、知者も、はずかしめる為に
この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめる
為に、この世の弱い者を選び、この世で身分の
低い者や、軽んじられている者、すなわち
無きに等しい者を選ばれたのである。」
それは、どんな人間でも、神のみ前に誇る事が
ないためである。
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昨日読んだ「日々の光」からです。
父は誰をも、裁かれない。
裁きの事は、みな子にゆだねられた。(ヨハネ5ー22)
そして、子は人の子であるから、子に裁きの
権威を、お与えになった。 (ヨハネ5-27)