聖書と共に

主によって喜べ

今日は、詩編33編で「旧約聖書1日1章」
(榎本保郎著)からです。

正しい者よ、主によって喜べ、
讚美は直き者に、ふさわしい。 (詩編33-1)

「新しい歌を主に向かって歌い…」

主によって喜べ、という事には二つの意味がある
一つは、主が下さるものを喜べという事である。
パウロも、「常に喜び、絶えず祈り、全ての事を
感謝せよ」と彼の手紙に記している。

たとえ、どんなに自分が苦しい、悲しい状態の中
にあっても、主に目を注ぎ、こんな私をも神は
愛して下さっているのだ、という事を知るならば
限りない喜びが湧き上がってくるのである。

ところが、私達は自分の思いのままに事が運んだ
り、都合良く行ったりすると、喜ぶが、それが
妨げられると怒ったり、悲しんだり、不安に
なったりする。

しかし、そういう相対的なものでなく、絶対的な
もの、すなわち、神が私たちに注いで下さって
いる愛に目を注いでいる者には、いつも平安が
与えられるのである。その平安を、喜びを、
見失っている所に、今日の人々の不安の根拠が
あるのだと思う。

主イエスは、「私が与えるものは、世があたえる
ものとは異なる」と言われた平安と、喜びを受け
る以外に、現代の不安の解消はあり得ない。

もう一つは、主が為して下さる事によって喜んで
いくという事である。
私達は、ともすると、喜びを自分で造り上げて
行こうとしやすい。バベルの塔の様に、自分の力
、努力で喜びの世界を生み出していこうとする。
主が為して下さるのを待とうとしないのである。

以前、今治教会で90周年記念にガリラヤ館という
建物を建てた時「主が家を建てたもうにあらずば
、建てる者の勤労は空しい」という標語を掲げて
行くようにした。いかに資金を集めようか、とい
う人の思いは退けて、直き心で、神よ、どうぞ
み旨なれば、お建て下さいと祈る事を第一にした。
その結果、思いにまさる大きな建物が与えられた
その不思議な神のみ業を喜こぶ証の場とされた。

「讚美は直き者に、ふさわしい」とは
主に明け渡していく者、すなわち神に従順に
従っていく者とされた時、その所で主の栄光を
拝する場となり、讚美せずには、いられなくなる
という事である。

    **************
父なる神はキリストにあって、私たちの父である
私達を愛して、私達の事を常に、おもんぱかって
おられる。(試練を含めて)

ルカ伝15章の「放蕩息子」は私達の姿である。
彼は、自分の時間と、財産を失い、
「私はここで、飢えて死のうとしている」との
どん底から、我に返り、父親の元へ帰っていった。

私達は、主イエスの十字架によって子とされる
身分を頂いた。それだから、はばからず、
父の元に駆け込める。

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