からの抜粋です。
種まきの例え話を主イエスがなされた時、
「いばらの中に蒔かれたものとは…
み言葉を聞くが…」
「良い地に蒔かれたものとは…
み言葉を聞いて受け入れ…」
と語られたと記されている。(マタイ4-18~)
み言葉は標語ではないし、額に掲げておく
ものでもない。神の言葉は受け入れる事を
求めるものである。
「聞く」だけでは、実らない。
源語を調べ、神学者の解説をいかに読んで
も、力と味わいは、み言葉を「受け入れて
」いった者のみが分かるというものである
「銀を求めるように、これを求め、
隠れた宝を尋ねるように、これを尋ねる
ならば、あなたは主を恐れる事を悟る」
(箴言2-4、5)
キリスト教は思索ではない。義(ただ)しい
生活は机上で学んで得られるものではなく
神に対して的をはずさない姿勢で生活して
行く時、人は義しい道を行く事ができる。
それは主体的に味わい知ってくもので、
キリスト教の味は、そこにある。つまり
信仰は、その人が聞いて知らされ、決断し
て入っていき、知らされるものである。
「慎み」という言葉が箴言には、よく出て
くる。一般的には、慎重とか、慎み深い
とか解釈されるが、しかし、ここでは、
それと違って、行く先を見つめて、この世
に埋没しないという事を教えている。
信仰の究極は何であろうか。
再臨の主に備えていく、という事である。
品性を整える為とか、人に喜ばれる為とか
人間関係を良くする為とか、
そんな事の為に、信仰していては焦点が
ボヤけてしまう。
再び来たりたもう主に備える切迫感を持っ
ているかを考えてみたい。
消防署は、出火に備え、いつでも出動でき
るように備えているではないか。
慎みの姿勢とは、そういう事を差す。