聖書と共に

主は私の願いを聞かれた

今日は、詩編28編です。「旧約聖書1日1章」
(榎本保郎著)からです。

「主は私の願いを聞かれた」(詩編28-6)
この「聞かれた」は、預言過去と呼ばれていて、
ヘブル語にだけしかない、言い方である。

これは未来の事を、むしろ既にあった過去の事と
して完了形で表していくものである。
この頃、「先取り」という言葉が、はやっている
、が未来の事を「先取り」するという言葉は、
聖書の預言過去から来ている。

 詩人は「主は聞かれた」と言っているが、神は
彼の願いを、彼の祈りを、今、かなえられたわけ
ではない。けれども、彼は、もう「聞かれた」と
いう過去の言葉で表している。

「聞かれた」として、彼は行動し、彼は新しい
生活に生きているわけである。
そうして神をほめたたえている。今は、本当に、
矛盾と苦しみの中に、ありながら、すでに聞かれ
たとして、神をほめたたえているのである。
これが、未来を先取りしている信仰者の生き方
なのである。

例えば、私たちは永遠の命を与えられているが、
現実には死んでいく。けれども、すでに永遠の
命は約束として与えられており、私達は、もう
その事を先取りして、今、神の恵みの中に生かさ
れている。神の愛の中に、神の膝元にいるのであ
り、それが天国なのである。

高橋三郎著「絶望と希望」の中に、一人の結核
患者の事が記されている。
家族にも見放され、療養所にいる彼女は病気の
為に、盲目となり、歯が痛んでも治療を受けられ
ないという、悲惨な状態にあった。

ところが、彼女は神に出会い、溢れるばかりの
喜びに満たされた。その喜びを、何とかして神に
お返ししたいと、考えた彼女は、童話を作り、
それをテープに吹き込んで、やはり入院中の子供
たちにプレゼントする事を始めたのである。

もし彼女が自分の惨めな現状を、ただ嘆いていた
ならば、そういう光は見られず、そういう積極的
な生き方も出来なかったと思う。
しかし、彼女は今、「私の願いは聞かれた」と
神の愛に目が開かれた時、その生活は全く新しく
されたのである。
私達は、この私を愛してくださっている神にもっと
目を注いで行かなければならない。

 **************

○星野富弘さん
  不慮の自己で、下半身不随になられた。
  イエス様に出会って、詩や絵画を通して、
  多くの人に感動を与えられた。

○水野源三さん
  赤痢にかかり、ほとんど寝たきり。
  イエス様に出会い、多くの詩を造られた。
  その一部が新聖歌に入り、教会で歌われている
 
 


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