からです。「静まりと黙想の朝に」の抜粋です
人間は誰ひとり、自分の正しさで神の前に立つ事
はできない。罪深い者は神の怒りと、裁きを受け
る者である。
だから、もし神に受け入れられるとすれば、それ
は、神の憐れみによるのである。
神は、哀れみをもって、異邦人を救いに招き入れ
てくださる。にもかかわらず、パウロには肝心の
イスラエルが、神の選びから外れた者の様に見え
る。なぜか、彼らに過ちがあったからである。
その過ちを述べる。
① イスラエルの過ちは、信仰によらず、行いに
よって義人となろうとしたからである。
(ロマ9-32、10-3)この問題についてパウロは
繰り返し語っている。
② もう一つの彼らの過ちは「つまずきの石に
つまずいた」(32)事である。
旧約聖書には不思議な「石」が出てくる。
「見よ、私はシオンに一つの石をすえて基と
した。これは試みを経た石、堅く据えた尊い
隅の石である」 (イザヤ28ー16)
ユダヤ人は、この石をメシヤ(キリスト)の事だ
と理解していた。
「つまずきの石につまずいた」とは主イエス
がメシア(キリスト)である事を信じられなかった
事である。
キリストが、律法と義の完成者である事を
もう一度覚え、主の贖いの業に感謝したい
ものである。
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あのバプテスマのヨハネさえも、つまずきそう
になった。彼が捕らえられ牢獄にいた時、
「ヨハネの弟子の中から二人の者を呼んで、主の
元に送り、『来るべき方』はあなたなのですか、
それとも、他に誰かを待つべきでしょうか?」と
ヨハネが尋ねています。
その時、イエスは、様々の病苦と悪霊とに悩む
人々をいやし、又、多くの盲人は見える様に
しておられたが、答えて言われた。
「行って、あなた方が見聞きした事をヨハネに
報告しなさい。盲人は見え、足に障害のある人は
歩き、らい病人はきよまり、耳の聞こえない人は
聞こえ、死人は生き返り、貧しい人々は福音を
聞かされている。私につまずかない者は幸いです」
ユダヤ人は、メシアとしてダビデ王の様な人を
想像していたのでは、と思われる。
戦士で、堂々としてローマの圧政からユダヤ民族
を解放する人を期待していたのではないか。
力を持ちて猛(たけ)き主、戦いに猛き主
(詩編24-8)
イエス様はサタンには勇敢に戦われましたが、
人々には、哀れみに満ちた方でした。
主は、その奇しい御業を人の心に留めるさせ、
主は恵みと憐れみとに満ちておられる。
(詩編111ー4)