(ヘブル9ー22)
私達を罪から救い出す為に、生まれ、十字架に
つかれたイエス様に感謝します。
以前、「もう聖書はいらない」という本が
あり、誰が、何のために、こんな本を出された
のか、知りたくて読みました。著者は
普通のキリスト者の主婦の方だったのですが
不眠症に陥り、「なんで私がこんな目に合わな
ければならないのか」と悲痛な叫びでした。
その中で、こんな聖歌は厭世的で嫌だと言っ
ておられた歌が新聖歌428「キリストには代え
られません」でした。
1、キリストには代えられません
世の宝も又、富みも この御方が私に
代わって死んだゆえです。
(折り返し)
世の楽しみよ去れ 世の誉れよ行け
キリストには代えられません 世の何物も
私は、ここに著者の課題があったと思います。
「イエス様の十字架で、自分の罪が赦された」
ここが、キリスト教の中心であり、十字架に
感動し、感謝し、仰いで、生きていく事が大切
です。罪は神様との交わりを遮断します。
話は代わりますが、
モルモン教会には十字架はありません。なぜか
、とも問いに答えています。
①十字架には暗いイメージが付いている。
②十字架は比喩であり、「だれでも私に従って
来たいと思うものは自分の十字架を負って」
の従順の比喩である。
③十字架は、救い主のみ業の一部であり、教え
に従う事が重要。
この答えを見ても、「十字架による私の罪の
赦し」という、一番重要なものを、軽くみてい
ます。これでは、十字架への感動も、感謝も
ないのです。聖霊が働いておられないのです。
教えに従うのは、まず、主の贖罪にあずかり
その弟子となってからの話です。
英語のことわざに
「No Cross No Crown」
(十字架なくして、冠なし)
とあります。
優先順位の一番は十字架です。
なお、「聖霊によらざれば、だれも
『イエスは主なり』と言う事は出来ない」と、
あります。罪と救いの業は聖霊の力が必要です