聖書と共に

神の愛が心に注がれているから

今日は「新約聖書1日1章」(榎本保郎著)から
の抜粋です。

私達は、律法に照らされた時、神の前に平安を
持つ事はできない。隠れ、恐れざるをえない。

しかし、私達は、罪が赦されたという宣言を聞い
た時、過去の罪が問われないから、神の前に
恐れる必要がなく、平安を得る。
ただ、罪が赦されたというだけでなく、さらに
神の栄光に、あずかる者とされる。

そこに、クリスチャンの喜びがある。再臨の時、
(イエス様が、再び来られる時)、神をお父さんと
呼ぶことができる。今は、何か遠い感じがするが
、その時には、子供が父親に甘え、あるいは、
膝の上に乗っかる様に、私達は神に迎えられる。
その事を思うと、心の底から喜びが湧いてくる。

イエス・キリストによって、神の光に照り輝かさ
れる者になるという、希望があたえられる。
単に将来の事に対してのみならず、今の患難をも
喜ぶ事ができる。なぜなら、患難は忍耐を生み出
すからである。

忍耐とは、意味を見いだす事であると思う。
私達は、意味のない事を忍耐することが出来ない
。多少のつらい事でも、、これは結果を生み出す
という意味があるなら、それをする事ができる。

患難は、私達にとって、苦しみである。しかし、
私達はすでに、神の愛に生かされている、と言う
信仰を持っておれば、その事をから意味を見いだ
していく事ができる。
その事が練達を生み出す。こういう一つの信仰を
持っておれば、これが循環していって、私達の
信仰は深まり、高まっていく。
その反対に、信仰がないと、患難から逃げようと
する。

5節に
「なぜなら、私達に賜っている聖霊によって、
神の愛が私の心に注がれているからである。」
とある。パウロが神の愛を知っているとか、理解
しているから、と言わなかった所に、私は一つの
意味があると思う。
私達は、心がカサカサになり、トゲトゲしくなる
事がある。しかし、夜露が降りて、乾いた土地が
湿り、作物が成長していくように、私達に神の愛
が注がれていく事によって、私達の心が潤って
いく。

きのう、ある人が「先生、もう私はだめです。
修養がたりませんから。」と言うので
「修養が足らんからとは、違いますよ。私も
修養はしていませんから。」と返答した。
この様に、信仰を修養の様に思っている人がいる
クリスチャンは修養や努力、あるいは信仰生活
によって生きていくのではなくて、上から注がれ
てくる神の愛を受けた時、その心が息ずいてくる
のである。

神の愛は、私達の知恵や、理屈や、議論だけでは
自分の心に潤いになって来ない。
そこには、生命が注がれなければならない。
聖霊は生命の霊である。神は聖霊を私達に注ぐと
約束して下さった。現に、ペンテコストの時に
それは注がれた。

私達の状態は丁度、明け方の様である。
朝の太陽の光が注がれ始めている。どんなに家
にも太陽の光は入ってくる。
私達は、窓を開いて御霊の注ぎを受け取って
いく事に努力すべきである。その時、私達の
心に、今日も、キリストにある神の愛が、
じんわりと注がれる。その神に驚き、その神を
喜ぶ事が信仰生活である。





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