聖書と共に

我、キリストと共に十字架に

今日は、ガヤテヤ人への手紙2章です。

「人の義とせられるのは律法の行為によらず、
ただ、キリスト・イエスを信じる信仰によると
知って、キリスト・イエスを信じたのである

「私は、キリストと共に十字架につけられた、
もはや、私が生きているのではない。
キリストが私の内にあって、生きているので
る。
今、私が肉体をもって生きるのは、私を愛して、
私のために、ご自分の身を捨てられた神の子を
信じて生きるのである。

私は神の恩恵を空しくしない。
もし、義とせられる事が律法によるのであれば、
キリストが死しんで下さったのは無駄である。」

イエス・キリストの十字架は、神の救いの手と
私は思います。
私は、キリストと共に十字架につけられたり、
とは
「我らの古き人が、キリストと共に十字架に
付けられたのは、罪の身体が滅びて、この後、
罪に仕えない様にするためです。」と同じです。

ここから「旧約聖書1日1章」(榎本保郎著)
詩編101編からです。

私達は自分の罪が、血を流すこと無しには、
赦されない程に重いものである事に、なかなか
気付かない。いかにも、自分は立派な人間であ
るかの様に思ったり、たとえ、欠点は認めても
そう、責められたりする程のものではない、と
思ったりする。

しかし、本当に福音を知らされ、神の御子、
イエス・キリストの御血が十字架に流される事
によってしか、赦されない自分であった事に
気付くとき、私達は限りない感謝を覚えるので
ある。
この神の御子イエス・キリストに御血によって
私達の罪が赦された神の恵みに、心を留める事
これこそ、福音信仰の根底なのである。

良きサマリヤ人の話の、きっかけになったのは
主イエスへの律法学者の質問。
「何をしたら、永遠の命を受けられるでしょう
か?」であるが、「何をしたら」…それが間違
いなのである。

私達は、何かをしたらと、すぐ思いやすい。
しかし、その時は、私の心は、イエスではなく
、自分の方に向かってしまっている。そして
私には出来ないとか、私は他人より、よくやっ
ている事しか考えられなくなってしまう。

パウル・ティリッヒの著書「新しい存在」には
律法の宗教は、神を憎むと、書いてある。
これだけしているのに、神はまだ、責められる
のかと、自分の行為に目を向けてしまうからだ
と言うのである。

私達にとって、大事な事、それは、どこに目を
向けるか、どこに心を留めるか、という事なの
である。この私のために、神は、
「子よ、汝の罪、赦されたり」と
イエス・キリストの十字架の御血によって、
宣言しておられる。その事に、心を留めていく
ことである。そこから本当に福音に生かされた
生活が始まってくる。


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