や律法学者に逮捕されるまでの弟子達の姿を
紹介します。
「しかし、見なさい。私を裏切る者の手が、
私と共に食卓にあります。人の子は定められた
通りに去って行きます。しかし、人の子を裏切
る様な人間は、わざわいです。」(ルカ22-21)
このユダの裏切りについて、榎本保郎先生は
「私は、ユダにとって、イエスが余りに彼の
期待と違いすぎた、あせりの結果ではないかと
思う。
イエスがあれだけの奇跡を起こし、群衆を魅了し、大きな感動を与えたのであるから、きっと
この国を導いてローマ国に対抗し、又、地上の
解放者として虐げられた人達の為に、一切の
解決をして下さるであろう、と彼は期待してい
た。
ところが、イエスのなされた事は、正直に見
ると、その時代の要求に必ずしも応えていたと
は言えない。病人をいやしたり、虐げられた人
を慰めたり、あの人、この人と、一人と愛の
わざをなさったのである。
しかし、この世の悪とは、もっと大きな所に
力強く働いているのであって、一人一人を救っ
ていくのでは問題の解決にはならない。
もっと大局的な立場に立って対処するのでなけ
れば、と考えたのではなかろうか。
しかし、イエスはその様な期待と違った道を
歩まれた。」
似たような記事が、ルカ7章19節にあります
バプテスマのヨハネが、三人の弟子をイエスに
遣わして質問します。
「来るべき方はあなたですか、あるいは別に
待つべきでしょうか」
イエスは答えて言われた。
「あなた方が見聞きしている所をヨハネに告げ
なさい。盲人は見え、足がなえた人は歩み、
重い皮膚病の人は潔められ、耳が聞こえない人
は聞き、死人はよみがえさせられ、貧しき人は
福音を聞かせられる。
おおよそ、私につまずかない人は幸です。」
これらは、イザヤ書61章に700年前に預言
されていた事です。
イエス様は、全人類を愛せよ、とは言わず、
あなたの隣人を愛せよ、と言われました。
あなたの職場の同僚、家庭、隣近所、親族、
親戚が対象なのです。
ええ、あんな人!をも含みます。