鰭崎英朋 『ハムレット』
姫宮方が楽しくお喋りしているのを、前を歩いていらっしゃる皇嗣両殿下はやや複雑な思いながらも、以前のように返った様だと思われていました。しかし、表の公的な建物に入られる時、妃殿下は足を止められました。
池田輝方 『春憂』
「まぁ・・・・」
ご一家の履かれる装束用の履き物が並べて置いてありましたが、清香妃殿下はすぐに靴を履くことなく、並べられたご一家の靴をじっとご覧になっていらっしゃいました。
「どうした?」
殿下は妃殿下に声を掛けながら、妃殿下と同じ目線で並べられた靴をご覧になりましたが、皇嗣殿下は黙ってご自分の塗沓を履かれました。そして、妃殿下にそのまま黙って履くようにと、目で合図をされて、頷かれました。妃殿下も緋色の袴と同じ精好の絹地で作られた同じ緋色のハイヒールの洋式の靴を履き、殿下の後を付いて進まれました。しかし妃殿下は、
高畠華宵
「余りにあからさまですわ」
「白菊は心身を病んでいるのです。思いやりがありません」
小声ながらも、やや厳しい口調でそう仰りました。桜萌黄襲(表萌黄・裏紫)の小袿に、首もとで髪を一つにまとめ、そのお髪には東宮妃伝来の、波をイメージしたという、プラチナとダイヤがキラキラと輝く素晴らしいティアラを付けた皇嗣妃殿下は、お年を召された事もあり大変な威厳があります。
その一方、新年のお儀式故、普段よりも念入りにお化粧(おしまい・御所言葉)をされた妃殿下はまだまだ若々しく愛らしくお美しいです。日嗣皇子の妃とは、かくの如くかというお姿でいらっしゃいます。
上村松園 『清韻』
しかしその美しい眉間に皺を寄せせられて、その表情は宜しくは有りません。とても不快感を示しておりました。妃殿下の表情をご覧になられた皇嗣殿下は、
「新年早々から、可愛らしく怒るものではないよ。白菊は皇族ではないのだから、履き物の置き方は間違えてはいない、職員は悪くはないよ」
そう淡々と仰り職員を庇うのでした。新年早々トラブルを表沙汰にしたくはないのです。勿論内心では決して良い気分ではありません。
「はい。別にどうこう言うつもりはありません。それに・・・・新年から“性悪„な“鬼婆„がまた文句を言ったと、言われますわ。聞く方も可哀想ですもの」
妃殿下は苦笑いされながら答えられました。
「そんな性悪な事を言う職員は、とうに皆辞めさせた筈だが、まだいるのかい?」
などと、皇嗣殿下は軽口を言われるのでした。
奥向きと表への境まで見送りに来ていた唐糸達も、夫人の草履が避けて置いてある事に気が付いてハッとした表情を浮かべて、
「直ぐにお履き物を直します」
急いで唐糸は足袋のまま、夫人の草履をご一家の履物と同じように直そうとしました。しかし皇嗣殿下はそれをせいし、
「そのままで良いよ」
と仰り、妃殿下も憮然とした表情ながらも、皇嗣殿下に同意されて黙って頷かれました。
表の建物から靴を履かれますが、皇族でいらっしゃる殿下方と現在は民間人である白菊夫人の履く草履は明らかに別々の場所に置かれていたのです。皇嗣両殿下と姫宮、若宮方のは一列にキチンと並べて置かれ、夫人の草履は離されて、しかも壁側の縦に置かれていたのです。
確かに、皇族である殿下方と、現在は民間人である夫人では立場は違います。履き物を並べた表の職員はきっとそう思い、忠実にそのように並べたのでしょう。職員のやり方に決して間違いではありません。
表の職員はあくまでも皇族である殿下方にお仕えしているのですから、殿下方の指示が、なければ、夫人に対してまで、あれこれ気を使う必要もないのです。その事は皇嗣両殿下も良くお分かりで、夫人が帰国してからは、奥向きの職員達が、夫人の世話をしていたのです。奥向きは両殿下直属の部下みたいなものですし、仕える年月も長いので、両殿下が、望まん事は分かっていました。
島成園
心身を病んでしまった夫人には、前と同じような、居心地の良い環境で過ごして欲しいと両殿下は願いさまざま心を配っておられました。
島成園 『湯の宿』
世間であれこれと言われるのも、非難を受けている事も分かっていました。それでも自分たちの懐に戻って来た上は、他のお子様方と変わらずやはり可愛い娘なのです。
栗原玉葉 『初夏の朝』
奥向きから今朝、夫人も玄関まで出てご一家を見送られる事は表へも連絡をしておきましたが、新年の準備に紛れてしまわれて履き物の並び方の事までは、妃殿下は指示は出しておりませんでした。
池田輝方
(もっと気を配らなければならなかった。私は白菊を守りきれていない)
不快に思っても、もっと細やかに気を使い指示を出しておけば、こんな事にはならなかったと直ぐに反省する清香妃殿下でした。そして自分の履き物だけ、あからさまに別の所に置かれているのを見て内心娘はどう思うだろうかと、不安に思いました。
夫人の結婚前、さまざまなトラブルが起きて、世間より大変な非難を浴びたものですが、その矢面に立たされたのは、表の職員達でした。多くの批判や中傷等を見聞きして職員達はどれほど嫌な思いをした事か・・・・その時の複雑な感情がこうした所等から出てしまうものなのです。
白菊夫人・・・・当時は白菊の姫宮でしたが、姫宮殿下の根無葛氏への執着は相当なものでしたし、浅ましいものでした。
須藤しげる 『春着縫う乙女を偲びて』
単なるわがまま、身勝手過ぎると、さまざま非難する宮内庁の職員達や皇嗣家付きの職員も多々おりました。白菊の姫宮の我が儘な浅はかな恋に付き合ってられるかと、辞めてしまう職員もおりました。
須藤しげる 『あの道この道』
当時のぎすぎすした関係は、夫人が帰国した現在でも、しこりとして尾を引いているのです。夫人もその事は良く分かっていました。大変な思いをした職員達には申し訳ない気持ちでしたが、ご実家を頼る他すべはありません。
池田蕉園 『窓』
皇嗣両殿下の後、姫宮方が続くのですが、後ろの若竹の宮に前に出て来るように、お二方共に端へ寄られました。ここからは公(おおやけ)の場となるのですから、皇位継承二位の若宮を先に行かせるのです。皇室の中で生きる側として当然な事でした。夫人の履物の位置の事は一目で分かりましたが、撫子の姫宮は黙って、まず先に若宮を先に進ませて、ご自分が、姉君の草履を直せば良いと、思っていました。
上村松園 『麗容』
しかし若宮は、ご自分の草履を履かれると、端に避けてある草履を自ら手に取られて、撫子の姫宮の靴の横に並べて置かれました。
「姉様達、置き方間違っていない?これでいい」
上村松園 『花下美人』
「ありがとうございます。でもあなたが、そうしなくても良いのよ」
「そうよ、私が直すつもりだったのよ」
「オレがしたって別にいいじゃん」
弟宮の意外な行動に驚きながらも嬉しくも思う姉宮方は口々に言われるのでした。そんな姉宮達に対して、照れてしまわれたのか、若宮は蘇芳の小降袖を大きく振り返して、さっと前を向いてしまわれました。
高畠華宵
夫人は若宮の心遣いに成長を感じられて、自分の手で抱き上げていた幼い弟宮が・・・・と胸の熱くなる思いでした。
伊藤小波 『夏の夕』
皇嗣両殿下も同じ思いで若宮をご覧になられていましたが、あえて何も言われませんでした。
「ご機嫌よう、おするする(ご無事に・御所言葉)とお儀式が済ましゃりますよう」
老女の花吹雪達の言葉に見送られて、ご一家は玄関へと向かわれました。
鏑木清方 『初雁の御歌』