昭和から続く、混沌の衝突ではある。
「売れる作品」を目指すなら、天皇陛下を崇めるべきだが。
「採用される作品」を目指すなら、それを否定するべきだ。
前者は店に並ばない。後者は並んでも、買う奴が居ない。
ともかく後者はそれでも、雇われ続ける事は出来る。
前者は、職さえおぼつかない。
その時、出荷される創作は、利益性が殆ど無く。
それを売る事でしか暮らせない、末端は困ってしまう。
今でもアインシュタインを否定する人は、世間にそんなに居ない、高名な物理学者、その評価は覆らない。
しかし、「昭和天皇からのオーダーです」そう言われた時、そこに否定感を向ける人は大勢いる、多分。
「アインシュタインは高名な物理学者」この評価は、少なくとも太平洋戦争の戦前、戦後と、今に至るまで変わっていない、変えていないと言うべきか。しかし、昭和天皇、その評価?と言うか認識、それは大きく異なっていて。少なくとも今、天皇制を肯定する感覚は、世間の多数決を敵に回す…そう言う”雰囲気”を纏う事には、成る。
日本は、戦後の民主化を前に、天皇の存在は問題があった訳だが。
しかし、昭和天皇はその時、「王の権威」それに成っていた、権利が移動していたので。
何故ならアメリカは原爆を使用したからだ、アインシュタインの物理の帰結は破綻した。
それを否定しては経済的な発展は無い、そう言う状況が始まっていた。
推測するに、アメリカ側は、”それ”を認める事は出来なかった。
平成が始まって、アメリカ?は、何かに大きなベクトルを向ける様になった。
「アメリカは、アインシュタインは正しい」そのベクトルに、大金を投入する。
それにアンチテーゼするパワーには、出資しない、社会的にさえ否定する。
それが利益を上げるか否か?は関係ない。天皇制よりアメリカの大統領制その方が上だ、そう言う主観に統一出来れば、利益はその後に帰ってくる。
と言う結果、しかし、リーマンショックとかが発生した。
状況は変わっていない。戦争が終わった、とは思えない。
「王の権威」の場所はハッキリした、にしろ、「それがアメリカには無い」事は、間違いないのだ。
状況はむしろ、これから、でさえある。
そしてもちろん、こういう絵は、アメリカ側を、民主主義を向いている訳だが。
何が問題かって、こういう絵が発生する「私は正しい」こっちの方が良い、そう言うのを否定出来なくなる時、それは”物理にさえ反発する感覚”として発露する、事だ。
いわゆる異様な無理解と独善と狂気を纏う「鬼女」が、何故発生するか?と言う、一つの理由には成り得る。女性は特に、そう言うのに汚染されやすい。
その絵を否定出来ない時、眼前の現実は間違っているのだ、正さねばならない、ので。
”それ”に対して、「とは言うけど正解はこれなんです」と、そう言う物が今?いや昔からか、「否定されてる」訳だ。そのパワーが無視出来ない位に、強い。昭和の頃はまだ良かった、とは言え日本の昭和天皇は偉大である。しかし、それは平成、そして今はもう居ないのだ。
”ここ”は?
何か関係があるのか?
単に良く居るみすぼらしく可哀想な清掃員でしょ?
その結果、論戦は終点を失い、結論の無い「ガンダムとシャアザクの優性論」的な話が、延々と続けられる事になる、どっちが正しい?
結果、その影響が強く出る領域では、何かの狂気が、盛んに暴れまわる事に成る訳だ。
重力加速度それは、目の前に有る物質に全て、同じ物が掛かっていて、全ての人々はそれに触れて生活している、或いはサイコロ博打でさえも、だ。
だから、”そこ”でダメ出しされたらそれはダメだって事だ、と言う理解があれば、鬼女は発生しない、訳だが。
「それが無い」ので。
それ以上の暴走は、何処かの裏山に埋められる、様な末路に至るのだけど。
”それ”で何時まで止まっているか、不意に、不安には成る。
ヘタですかね、私は。
そうですねぇ。