日本勢、銀、銅、メダル獲得。
良くも悪くも”これ”が、エンターティメントの花形、ではある。
意味を考えると、決してメダルを取る事が目的では無い、その場に込められた願いに対して、アスリートらがどれだけ貢献し得たか?でしかないしかし。
「我が国の選手が成果を上げました!」
大変おめでとう。
自分の把握する「冬季平昌五輪」それは、開会式からして、南北朝鮮の再統一、を目指した、ある意味で政治色の強い物で。この辺「開催国の特権」だ、じゃないと主催する旨味が無い。開催国の問題を、世界総出で無形のパワーにより何とかしよう、この大会の趣旨としては、各アスリートは「その為に」全力を尽くせ!Z旗を上げろ!そう言う、感じ。この辺、テレビゲームなどと方向性は同じだ、単にゲームより映画などに近い、公共性が高い、だけ。だから、意味的?にはメダルを取る事は問題じゃない、「誰か何処かは取る」のだ。単に投入された労力、成果、それが大会趣旨に、さらには人類に対してどれだけの貢献をしたか?それが結局は、その願いを具現化させるパワーとなっていく…訳だが。
その時、やっぱり競い合った方が、パワーも精度も高くはなる、ので。
五輪を取り巻く状況?は、以前よりも格段に良くは成ってる気は、する。
今回は、自然の猛威さえも、イベントの様なニュアンスがある。
アスリート達は、まるで災害の様な苦難に立ち向かっているのだ。
山登りはスポーツか否か?冬山登山に近いニュアンスさえ入った?かも。
そんな視点で、グローバルには、スポーツへの関心に、世界全体での改善傾向は有るのだけど。
概念では、自分が最上位である。日本だけじゃない、”世界で”だ(・・・)。
しかし、「前任者」は居て、自分は、その権威?を、引き継いだに過ぎない。
引き継ぐ?時にはかなり混沌があり、平成は偽物?により支配された経緯があり、その辺、より強調はされる、のだけど。
だから、問題として、シニア世代付近は、「前の王の意向を引き継いでる」のだ。
その命令が、決して間違いだった訳じゃないのだ。
だから、しかし、今と前と、どっちの意向を重視するべき?
ここには妙な二択は、ある。
ともかくこの結果、今の「王の権威」は、以前の様な権威性?を、どうしても…持てないで居る。
偽者なら持てた物が、本物が持てない、その理不尽。
システム的な正論としては、或いは、今の方が上だ。
前は、最後は前任者の胸先三寸、”それ”が平成の不景気を招いた原理に成ってた。
そこは打開された、システム的な混沌はもう、無い。
しかしこの時、前なら通った話が、今は通らない。
この結果、現場には相応の不満?そう言うのが溜まる…可能性は有る。
要するに、”ここ”が以前の王の様な権威性を持てない事には、理由がある。
ともかく戦争で勝てば良い、勝った奴が正義である、それは、変わらない。
ただ、以前はそれに独裁性があったのだ。今は無い?
しかし、今も大賀さん、それは本体が何処に有るのか見えず。
そして、今の「王の権威」にも、それを早く前に出せ、その命令は…通らない。
前の王は、或いはそんな事を命じなかったから、だ。その辺、人々には知らせないで良い。
個人的に”それ”は、困る。「大賀さんに聞いて?」それが、通らない。
「この前、”大賀さん”で戦争したでしょう?それで決まったでしょう?あなた方は負けたんだ、もう引き下がるしか選択肢は有りません、これ以上は犯罪者として罰せられますよ」
相手は止まらない?前任者の命令には、そんな話は無かったからだ。
以前なら”この先”が有ったのだ。ただ以前はその時、誰かが、潰れていたのだけど。
大丈夫なの?
そこが、どうにも。