あげちうのブロマガ

テレビの中で眠る竜

理解としては、問題無い。

ただ、それだけに。いわゆる「神様の意向」それは、面倒さは出る。

AとBの領域が有り、Bの方は発展中、Aの方は停滞中。システム?の違いだ。このままだとAは破綻する、が。Aの中にも罪なき人々、そう言うのは…居る。

「その辺、切り捨てて良いの?」

そう言う反応に対して、システムは結局、恐らくは「一番解ってる奴」を、”Aの方に置く”訳で(゜-゜)。B側の発展、”そのシステムを創った奴”だ。外部的には、BはAを浸食しているようにさえ見える。だから、その解ってる奴は、自分が助かる為には、Aを何とかしなきゃいけない?訳だ。少なくともAが破綻するまで、「自分には(B側のシステムには)問題が無い」それを証明し続ける必要は有る。それは、その「解ってる奴」が敷いた、B側のシステムの、その強度の問題でもある。”神”を標榜するなら、それに比する結果は出さねばならず。その時、理由なき切り捨ては許されない…例え一人であろうと、だ。

”それ”を、或いは50億人くらいのAに対して…適用しなきゃいけない訳だが。

「テレビ」は、その時今、B側のシステムに吸収された…”感じ”は、ある。その内部的な分配?それに関しては内部の自由ではある、が。倫理観は、B側の”それ”が適用される。Bとしては、そのタレントを採用する事も、出演料を払う事も否定感があっても、そこはA側の判断であり…その結果として適当な成果を出しているなら?それ以上は、内政干渉でさえある。テレビはあくまでも、スポンサーが投入したお金に比する成果を出してくれさえすれば?何を放送してようと、A側の自己責任ではあって。

しかし、A側は結局、独裁性への夢をまだ、諦めてる訳でもないのだ。

結果さえ出せば、スポンサー収入をどう使おうと自由である、時。”上の方”の胸先三寸で、「なんでこんな番組に金出すの?」独裁的に企画され製作された、”そこ”には払われてしまう。一見してそれは、「認められた」何かの理想が具現化した瞬間!なのだが実際には、「それは成果に成ってない」のだ、大概の場合。自由に勝手にやってるその解放感!を他者が真似し始めると、気づくとテレビは、その存在意義さえ疑問視され始めて。

かつての映画産業、その衰退に近い状況へと陥っていく…訳だ。

B側のシステム?倫理観、”それ”が適用される時、その「出ない成果」に対しては、強い否定感は向く、筈ではあり。しかし、北朝鮮に対してアメリカが、もう一歩踏み込めない様に、国家的な組織に成ってしまっていたら?その更新は、面倒さを伴う。A側では、自分の置かれてる状況の様な排斥は「否定されてない」のだ。”ここ”では努力それが、意味を持たない。

しかし、それに対して、自分の状況から出来る事は、ブログ書く事位しかない、のだ。

これでどうにか出来るのか?それは、まだ不透明だ。


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