「大賀さん」は、仕事をしている。
存在が必要とされる”役目”を持っている。紛争解決。
ただ、「大賀さんにならん」その人々には、役目も存在する理由も、無い。
人間的な視点では、”そこ”は最後に左右を決めている存在、だ。
その結果で、現実も同じく動いたりする。ここが右と言えば右だ、今までは如何に左と言われて居ようと、だ。
この意向で、富、或いは幸運の方向が変わってくる。
世の中を動かそうとしたら、”ここ”を動かす、と言うのは一理あって。
どっちの世界が良い世界か?だ。
それが誰かの任意か、それとも仮想現実の戦争で決まるか?だ。
今の所、勝者は後者だ。しかし、前者が少なからず、居る。
或いは「麻雀」それを土台にした経済システム、その悲願かもしれない。
そして今、その前者の経済システムは、システム全体がその「ハコテン」を喰らってしまい、そのルールに則って、”然るべき適用”をされようとしている。
「こんなのは遊びだ」
なら、今までも全部そうだ、それらは暇つぶしとしての価値しか無かった事に成る。
価値が無い”それ”が売れなかった、それは?単なる道理でしかない。
お金を得ようとすれば仕事するしかない、が。この方向性にあるスキルは、殆どがその時、何の価値も発生しない。”他人を蹴落とすスキルしかないから”だ。「それは犯罪です」一般論の反応。
何かの期待は、この時それでも、彼らが麻雀を捨てる、そこには有るのだけど。
「その後」を考えても、或いは今までの経緯をみても、そうなっても、罪が許される、なんて事は無い、のかも。
ともかく、ジャニー喜多川氏は亡くなってしまった。
或いは、そこにあった何かと共に、だ。
世間の大部分はその時、或いは「親」それを永遠に失った訳だが。
親の権力それはもう、殆ど当てに出来なくなった。
親を失って、麻雀の領域は存続する事が出来るのだろうか。
出来ない気もする。
だったら。
道理の結果は、何処に行くのだろう。