前にも考えた事かもしれない。
「黄昏の狩人」を書いた庵野秀明氏、それは、居ない。
そして或いは、「新世紀エヴァンゲリオン」そのファンの多くは、”それ”に対して希望を抱き、愛を語り、王と崇めたのだ。
その人々は今、行き場の無い信念を抱えて、何だか淀んでしまっている気はする。
「いない」のだ。
どれだけ”それ”を求め追及しようと、そこには誰も居ない。
該当し得る存在は、結局は「普通の人」その、「単体での±0」単なる0、それに陥り、それは物理として居ない、のだけど。
「それが”普通”でしょう?」
その言葉の真意の様なモノは、彼らを何だか、どうしようもない存在にしていく。
現場としては今、出来ない事に対して「出来ません」で拒絶する、それが最善なのだけど。
その結果、”上”は今まで通りが出来なくなる。あらゆる点で損失が発生し、全体は窮乏していく、その責任を問われるのだが。
多分、結論としては、「どうしていいか解らない」のだ。
その「普通」居ない人に、問い続けたから。
そこに「大賀さん」それを置いたりせず、「誰か?」それに依存し続けて。
すっかり、人間的な感覚を失ってしまったのかもしれない。
ジャニー喜多川氏も、居なくなった。
その夢?も、或いは一つの結末を見たのかもしれない。
カウンタ制御、それはもう、いらないのだ。
或いは、彼がもう、亡くなったから。
彼の夢が最優先だ、その理想を具現化せん、その為には余計は排除せねばならない!
そんな、”何か”が残っていたのかもしれないが。それは或いは、彼と共に消えた。
良い結果、だったろうか、それは解らない。その夢が叶っていた事を知っていくなら吉事だ。
ともかくもしかしたら、「カウンタ制御」それは、存在の意味を失ったかもしれない。
存在させ続けた、理由の喪失。それはでも、そこに依存した人々の状況を、尚更悪化させる訳だが。
因果かもしれない。
その場にあった、信念の様なモノは、どんな帰結へ至るのか。
それとも、単なる邪でしかないのか。