この現実は、何か誰かを生贄にして存続しているのだ。
それを意識する時、その光景は少し、イメージが変わってくる。
現在の状況で、「人力発電機」それを前に押せない現実は、ある。その結果で、「今まで」が総じて否定されてしまう、そう言う面と、それに伴う人的な損失さえも伴う崩落は無視出来ない程度、重い。責任者が過失を問われる、だけならまだ良い、民主主義の結果、その責任者は民主的に選抜されているのだ。その人物を自身の上位と認め支持する人々が居なければ、その人物は前に居ない。その時、まず矢面はそれを支持した”そこ”になる。
状況で、80代、90代は、結果的には昭和期、あまり問題を起こさなかった。
そこに現在、世界は依存しているが、同時に「独裁者の存在」それの弊害も残った。
対して、60代、70代は、そんな昭和の問題を背に、打開を目指して平成に至る。
結果的に、平成は良い時代とは言い難くなった、衰退と喪失、商店街の消滅等々。
「古い」とはしかし60代、70代のそれを見ている、のだ、80代、90代のそれじゃない。
この時、何をどう直せば?それは、かなり混沌に淀んでいく。
結局?今もやっぱり、古い昭和、”その”再現こそが状況を立て直す道理、みたいにはなっている、感じはある。テレビを復活させ、その影響に寄る利益性、それを蘇らせる。インターネットはそのバックアップに下がる。昭和期の、商店街の活気それは、良くも悪くも高揚と共に有ったそんな何かではある。意識は”そこ”へ向いてしまっている、それを保持しようとしないと、今も依存している昭和期のコンテンツ、それもまた崩落しかねない。
平成のそれは、少し改善か抑止、それを余儀なくされていないか。
不幸な執着の結果、平成は膨大な借金と、海外ではか、幾つかの戦争も招いてしまった。長野で行われた冬季五輪も、結局は発展の礎とはならなかった、後にはレガシーと言う名の負債しかない。何かを色々と改良する必要はある、古い方法論を続けてはダメだ、と言うのは60代、70代のして来た”それ”へ向いているのだ。しかし、ともかく平成にはインターネットが誕生し、それには今も、人々は依存している。
「インターネットは、森実が創った”黄昏の狩人”それを足場にして生まれたのだ」
という主張は、現状に何を求めているか。
ともかく上意下達、「それで上手く行った時代」ではある、昭和とは。”それ”に依存する、それに如何に問題があろうと、今は”それ”で進むしかないのだろうか。それはつまり誰もが平等な権利を有する、そんな感じでは無い。伴う問題をそのまま残し、それでも?とは言えそれしか選択できない、そんな気もしない事も、無い。
切り捨てを創らない為に、国は、お金を出せと言われる。
それへの是非と共に、しかし他に術は無い。
使用イメージ
https://seiga.nicovideo.jp/seiga/im6772423
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