責任は無い、が。
状況が悪い、それもまた現実かもしれない。
状況として、”表”側には概念としての「人力発電機」それが無い。結果、「お金が欲しい!」時、健常者が、直ぐに入金先を思い浮かべる事が出来ない。結果、そこは「欲しい」と思う人が多いにしろ、支払いが無いので利益が出ない。この状況は経済に深刻な問題を引き起こす、無職と経済的衰退だ。”表”側は、つまり破産状態にある。
という事は、「人力発電機がある」裏側に、表側は”吸収されてしまう”訳だ。結論として今、「大賀さん」それに世界は理屈の上では「買収」されていて、経営権はその、裏側にこそ有る、或いは随分前から。裏側、或いは”ここ”だ、「人力発電機」の概念がある場所に、世界は経済的には支配されている訳だが。
…その割に、もちろん”ここ”にはその実感も、現実も無い(´・_・`)。
今までの諸問題は、全て「王の権威」と言う特権の存在に寄る。結論で”それ”の排除を念頭にする時?そこに有るのは神の思惑、「全ての人々に、平等かつ公平な環境を」そこに有る。結果、「王の権威」その物が消える事に成り、裏側の環境には、王が居なくなる。発起人で有りつつ、エンドユーザーの「って先生が言ってたから」、発言は”そのレベルでしか言えない”訳だ。権利は一般人と同じ範囲で、或いは責任だけが集中する。
その状況で、「人力発電機を否定する」”表”の権力があり、それを排除?出来ない。
”彼ら”が、結論で人力発電機を破壊する!事に意欲を向ける限りは、”ここ”がそれを防ぐ事は出来ない訳だ、何故か。もちろん?概念その物を破壊出来る訳でもなく、相手の方が、高い利益性その他がある訳でも無い。相手は暴れるだけ損害を加速し、或いは本当に破綻していく。それをただ、”ここ”は見ているだけ、だ。自身の状況も何故か、彼らと同じくらいの状況には有る、「打開を!」それは求められても、だ。
その根っこにあの、「117」と言うゲームの存在と、権力による否定?があった、のだろうか。
「男女の性愛のリアルは描けない」利益にならない、問題にしか成らない事を、当時も今も、「権力に逆らうな」でしか、拒絶できてない訳だが。
理解?する、少なくとも逆らわない人々が善人で有り、理解しない人々が悪人である。前者は後者を倒し排除せねばならない、それは昭和の倫理ではある。そしてまた、”その”理屈では完全排除、それも出来ず、不満が蓄積するだけだった、現実も勿論ある。とはいえ帰結は同じだ、悪人が暴れて、善人に迷惑をかけた、それを排除した。古い作品は平成の間、”それ”を否定され、価値を失ってしまったのだが。
人力発電機、その認識は、その「正義」その復活ではある。
権力には今も、人力発電機は無い。