Aと言う世界では、
紛争解決機構により「戦争」をしていて。それに勝てなければ、その夢は叶わない。
Bと言う世界では、
「その世界その物が戦場」であり、糧は相手を殺してこそ奪い取る物としてある。
Aで勝てなかった人々が、追い出され、Bへと逃げ込む。しかしBでも勝てず、潰える時に。
不思議な事にBの世界には核兵器は無く、Aの世界には使ったら負けと言う代物としてある。核兵器の使用で勝ちにさえ成れば、彼らにも勝機はあるのに、だ。
”そこ”に残るのは、何だろう。
これは或いはイスラム国の、実際には「発起原理」なんだろうか。紛争解決機構とかが期待される成果を出す時、戦争は「物理衝突の危機!」までしか、起きない。その最終防衛ラインとして、数多の軍事兵器は必要ではあるが…良くも悪くも日本の自衛隊だ、戦場で人を殺したりする事が、出来ない軍隊。それが今、或いは今後?未来の方向としての、軍事力その必要性ではある。
手にした銃も手榴弾も、それは実際には”無用の長物”なのだ。「それでいい」御守の様なモノだ、兵器はこの時、そう言う物でしかない。
「それで良い」とは、まだ断言し難い部分は、ある。
良くも悪くも「真なる自由を!」魂の解放を!とか言い出す時、「反対する奴を殺す」それは必然として有る選択肢、だ。その時、一瞬だけ自由は実現する。自分の理解では創作とはその「逆らう奴を殺す」潰す、”ぶっ壊して”ブレイク、と言う事になる。
「それはダメだ」
結局、平成になって不景気になったのは”だから”ではあり、創作がブレイクしなくなり、価値を持てなくなった。そしてその時、昭和の頃にブレイクされた人々の復讐も、同時に始まる訳で。結局そう言うのを背にして、「中華思想の皇帝」それは誕生してしまって、或いは今も、倒しきれてはいない。
「物理的な戦争をしない」時、”敵”は損を出したとしても潰せなく、殺せなくなる。そいつが死ねば、それが持つ権利その他を自分の物に出来る、利益が得られるのに、だ。利益を出さんとしたら、「仕事」をせねば成らず、その時、自由は失われる、何よりクライアントを上に掲げねばならない。自由が許される、その特別とは程遠い。そこに衝動がある。
…剣呑では、ある。
世界規模での「剣呑さ」が、目指す未来を遮る障壁が、”あの”イスラム国を産んだのかもしれない。戦争の無い世界を目指さんする時、そこに反動があり、そして「これが終わったら、もう兵器で人は殺せなくなる」可能性が非常に高い、時。”何かの自由は失われる”のだ、それは、期待されうる未来なのか。生産その効率化の結果、市場に対する供給量は増えるのに雇用人員はどんどん減り、要求は「買え」しかし、「仕事は?」無い。自然、悪循環に陥る。自由を!独裁性を過剰に容認する限り、ここを超える事は物理的に出来ない時、突破口は、剣呑な一つしか無いのだけど。
銃を撃ち、建物を破壊し、人を殺し、その人肉を喰らい、快楽の叫びを上げる。あらゆる”犯罪”を繰り返す、作家が目指す「理想」自由を!その帰結として現れる、地獄。
「片付けろ」
見苦しいモノを映し続けるんじゃない!それはでも、まだ、表示され続けているのだ。