あげちうのブロマガ

怪獣が眠る古き街にて

事態は深刻だ。

「売れるゲームの作り方」それは、かなり確定的には成ってきている。
故に”これ”を創れば理屈の上では、ゲームセンターは維持出来る可能性が出てきた。
後はつまり、売れるゲームを量産し、ゲームセンターを普及させればいい、が。

そこに何故か、壁が有る。

今の方法論だと、「売れるゲーム」それは、少なくとも”外部から来たモノ”だ。
まずそれは自分のアイディアじゃないし、オーダーでも無い。オーダー通りに創っただけだ。
だから、愛着、と言っても限度がある。力不足でごめんね、位で倉庫行きに成っても、それは”最終的には自分の作品じゃない”のだ。

しかし、前の方法論では”それ”は、自分で企画し自分で造った、そう言うモノだ。
苦労して、それを認めてもらい、そうしてゲームセンターは誕生し、文化となった。
”それ”を廃棄する、と言う事は、自身のその時の歴史その物を否定する、様な行為に成ってしまう。

倫理観が変質し、第三者的に言ってゴミを、捨てられなくなる。

確かにゲームセンターは今、存亡の危機だ、が。それは失敗例か?と言うと、間違いなく「一時代を創った分化」な訳だ。「何が間違っている?」重い問いに対して、自分にしろ反論ができない。しかしそれは、凶悪な0か1を向ける物には成っている。殺すか殺されるか?だ。当時はそういう時代だった、と言う事だろうか。新しい方向性を、似て非なるそれを受け入れる事が出来ない時、”それ”は殺意を伴って反発する。

今、自分の周りで起きる?問題の多くは、どうも”ここ”から、だ。
自分の方向性が進むと、”これ”を結論では、排除しようとする。
巨大なアミューズメント施設の一角に”それ”が有る、と言う状態にならない。
理解だろうか、”その中”で結論では不採算で、消えてしまう訳だ。

老醜に近い事態だ、とは思うが。
そうとも言い切れない強度、反発、それも有って。

確かに客が、売れない面白くないゲームに金を払えば済む話だ、が。
客が、製作者らの熱意や想い、そう言うのを理解してくれれば済む話だが。

長野県の出来事は、東京にはあまり関係ないのだ。
東京が地方の事を気には掛けない様に、地方もまた、東京のそれはどうでも良い。

有り得ない可能性を、どうしても求めていて。
一昔前は、誰かを生贄にすればそれは一時とは言え有り得たのだが。

結果、そこには何かの凶悪な怪獣、それが鎮座している状態にはなった、感じ。

限度、と見るべきか否か。

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