あげちうのブロマガ

始まりの歪みと選択ミスの結果

懸念は残っている。

「人力発電機で1kw発電すれば10円支払います」も、結局は”誰か”がそれを決め、守ってくれるから、こその安定?供給、でしか無い訳で。

誰が?

という、それを自分自身でさえ、今も、微妙に探している感覚はまあ、続く。

「大衆は神である」と言う思想の、しかしその最終段階と言うか…そこに有るのは「”自分”以外の全てが敗者である」間違えた人々、という、そんな絵だ。人々は、その一人の正解の前に跪き、「貴方の言う事に従います」それを言う訳だ、が。

その時、「大衆」それは、何か。

この状況は、別にごくごく自然に、普遍的に起きる。「貴方の言う事は正しい」それで有る時、全ての否定的意見を抑え込んだ先は常に”そう言う状態”だ。それを受け入れるから、こその「大衆」と言う神であって、それを内包した上で「大衆は神である」それはある、のだが。

その果てに、「自身の上が居ない」状態がある。結局、”最後”の神判を経た時、その選択とは「一人の独断に過ぎない」訳で、正解か否か?は、その後の結果でしかない、訳だ。良くも悪くも大衆によって選ばれた存在だ、その答えは正解でしかない、筈だが。しかし不意に「反論が無い」という事態と、その前に有る物には少し、不安は募る。

有るにはあるにしろ、今の所は罪人と言うか、反逆者以外には無い訳で。

”それ”は結局、今、こういうのを書いてる、自分の中にある「不自然」理想じゃない物、それでしかない訳だが。


気づくと、もう「若い奴ら」と言う言い方をする自分が居る。

彼らは、パワーこそ有っても未熟と無知を兼ね備えた無敵の暴走族みたいな物かもしれず、”そこ”に正義は有るか?と言うと、疑問は多々あり、「正義は勝つ」と言う観点では、シニア世代にこそ”それ”があったりして、夢を語る若者らは罪人的に負けていく、という絵はある、或いは酷いと「才能」を失いつつ、だ。とは言え、経験は否定の蓄積でさえあり、失敗例を排除する先に有るのは、定例的で面白みのない単純作業の繰り返し、かもしれない。失敗はしないが、常に既知だ、「学校の先生」それが時には思う疑念だろうか。去年も教えている内容を、今年も同じく語っている。既に理解し実践し成果も出している人々へ、同じく要求する、「新しくない」その一つの失望感は、同意も無い事も無いし、「正しいのか?」と言う、そこに疑問もある。

…そう言う意味では、「権限内なら自由に創って良いが失敗したら場合によってはランクダウンする」という、システムは、折衷案的にアイディアだった、とは思うが。

…それでも、ふと気づくと、先人で固めた階級社会、”そう言う感じ”はあるのかもしれない。

決めたのは自分であり、それでその場は成果が有るからこそのその先ではある、だろうがしかし。今の自分が正しい、というそれもまた、或いは自身の決めたルールでしかない訳だ、自分が正義だ、と言う証明は、実はほぼ、何処にもない。


それは結局、「利益に成ってるか成ってないか?」と言う判断に帰結せざるを得ない時。

自分の現状は、果たして。

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