自分の言い分はこうだ。
「それ、この前”大賀さん”でダメ出しされたネタだよね、また台風19号とか呼びたい訳?何人殺したいの今度は」
それで相手が問題なく引き下がるなら、少しは改善があるのだが。
今までは、しかし或いは今も、もちろん、”この”会話が出来ない。
「それ、この前ゲームで負けてダメ出しされたネタだよね?」
それ以上を言えない事態の方が多い。
…一応まあ、今の感覚だと、”これ”でその場は止まってはくれる、のだが。
例の「漫画家A」に関しては、もちろん今も「ホントは女性です」メディアに出てる人は違う存在です、を微妙に固定出来てない。只でさえデリケートなネタだ、そこに有る関係に何を見るか?それはマイナスしかない。彼らはそう言う部分に喰い付いて、何とか存在を維持し、次の機会を狙おうとする訳だが。
「大賀さん」紛争解決機構、その理想と現実ではある。「戦争を仮想現実で昇華させる」上で、事は国家、或いは思想、宗教その他の代理戦争的なニュアンスを自然と纏い、そこには問題あるリアリティが、非現実的なネタとして出てくるのだ。ちょうど、今の中国による新型コロナウイルスへの対応の如く、だ。「これは戦争だ!」レベルで、或いは彼らは”ここ”に挑んでくる、それに対して、こちらの武器は主張する正論でしか無く、そして平成が始まる時、”それ”は残念ながら「赤信号みんなで渡れば怖くない」これで突破され、破壊されて?しまった。ビートたけし氏がその後、生死に関わる事故を起こしたのは果たして偶然?の不幸だったろうか、今は微妙な感覚には成る。
…それでも、その原因たる「クスィーガンダムがペーネロペーに負けた」に不同意な意向”それ”は、或いは今も、利益性は失っていても、罪を問われないまま、なのだ。
オチを探している。
「この事例に関しての戦闘は終了しました、貴方の側の負けです。これ以上の不満は、反逆者として処罰も有り得ますが」
彼らとは、”これ”に反発しそして突破し生還する、それがプライドだ。
その結果としての。