夢を見る。
ただ、その前には現実の壁が、何かの重荷の様に有る。
現状、直ぐに娼婦を営業禁止にする、と言う事は出来ない。
新型コロナウイルスが有って、”それ”がかなり、「風俗関係で広がる」と言う事が解った今でも、だ。風俗関係を営業停止にする!様な措置は、世界の何処でも取っていない。今も尚、この産業は、その位の、従業員の人命など無視して、重視?され続けている、訳で。
”ここ”に十分な娼婦を供給し得れば、今まで通りは続くのであって。
「ストリードの連携」が目指す理想、それはでも、この壁を前に、逡巡はしている。
創作が利益性を持てれば、結論では経済は娼婦の存在を必要としない。しかしその為には、創作は「利益が出る形」を要求され、何かの意向、やりたい事、作者側の願い、そう言うのは否定される。多くの視聴者には夢の様な絵に見えても?それは必ずしも、作者の理想とする絵じゃない、事もある訳だ。単に仕事として依頼され描いただけだ、その時、報酬としては利益と、見た人々の評価しかない訳だが。
…”それ”が自分の願い?をむしろ否定してしまう場合も、時々、ある。
邪悪なる存在は殺さねばならない!と言う正論はでも、人殺しは犯罪です、貴方は罪人に成るべきでは無い、そんな正論に抑止されているのかも。
「商店街が総じて流行ってる」その絵を具現化するには、結局は一人だけ儲かってる、様な状態は否定せねばならなくなる。すると、自分の分は小さなパイに過ぎない訳で、その範囲内で何が?と言う時、「つまらない」その感想しか出ないかもしれない。昭和の頃の愛された暴虐無人、そう言うのは厳禁。節度を求められる、良識も。どんぐりの背比べで皆、それを喜びとせねばならず。
それを理解する時、創作はどうにも微妙に、説教臭さは発生する。
開放感の無さは、節度の存在でもあるのだが。企画時点で、どうも何かの嫌な絵は想像する。求めているのは突き抜けた何かかもしれないが、結局そこに有るのは「と言う事をすると結果はこうなるでしょう」止めた方が良い、そんな無言の小言だ。利益は出るにしろ、求めたモノじゃない、それは何となく、不意に。
未来は見ている。
ただ、解らない事の方が多い。
捨てられない願い、それは或いは昭和の頃に出来た。
それの再興を求められ、そして結論では何か違う、その感覚と。
それが邪である、その理解と。