大いなる断絶はある。
アダルトビデオは女性だけで撮影すれば売春には成らない。
これに同意する層と、しない層だ。
結論で現在?”この”具体例と言うのが、一般的には前に無い。
アダルトビデオに相当する物は”全て”多くの男性スタッフの中に、数人のAV女優が居て、「女性は裸に成っている状態」で撮影される。
これを売春じゃない、と言う根拠は、視点では全くない。
風俗関係が合法的では無い時、これもまた、実際には違法に近いのではあるまいか。
だから、男性スタッフは”全て”、撮影現場に居ない方が、良い。
そこに男性が居なければ、それはとある女風呂での惨劇でしかないのだ。
ともかく一般論での「その後」に、傷に近い物は、付かない。
「出オチになる」話がその後に続かないのは、それが犯罪性の容認に成るから、だ。
それを避けるには、相応の小細工が必要に成り、これはその根本的な一策ではある。
これならくっころだろうが団地妻の誘惑だろうが女教師乱れるだろうが何でもできる。
犯罪性を恐れる?必要は、撮影現場としては、無い。
そうかな。
まあいい。
しかし、この辺の理解?は根深いモノがある。
独裁創作の怖い所は、強力な思想誘導性を示し始める事、だ。”流行”を創る時、そこには何かの強制力が発生する。そして、それは無理が通れば道理が引っ込む、を具現化させていく訳だ。実際には、独裁創作には利益性は発生しない。その時、必要な利益は何処から得れば良い?
信者から徴収するしかない。
そして、信者らはその時、同じ事を”自分より下の存在に対して行う”のだ。
そして、その末端に、罪なき弱者の女性らが居て、そう言う人々が娼婦となり、或いはAV女優に成り、数万円を対価に、身を削らされる事に成る。
「万引き如き犯罪じゃねーよ」
結局、独裁性へのこだわりは、この一言に集約していくのだ。
昭和を経た人々の多くは、どれだけ損害が出ても、”ここ”にまだ、居る。
今までの方法が間違っているとなったら?自身らは酷い略奪をしていた犯罪者に成る、からかもしれない。
そこは、必死で抵抗する、「もうそんなやり方じゃダメです」その時、それは権威も地位も、何もかも失う悪夢が、現実に成りかねないから、だ。
「自覚が有る」或いは”その”状態に対して、批判は正当なのだけど。
問題なのは昭和も平成も、”それ”を肯定して買ってきた、世代がある事だ。
「エヴァンゲリオン」を面白いと思ったら、しかし、それは同じ穴の狢である。
もちろんだからこそ、自覚し、二度としない様に!それは大事な話なのだが。
池袋暴走事故は、或いはそんな帰結の、一つの致命的な事例、かもしれない。
上級市民、その老人は、その方法論を曲げないまま、或いは自身の、主観的に階下に居る「潰しても良い人々」を、要求のままに”潰して”しまった。
因果は因果として、そこには人間の情を無視してそこに有る。
そして固執する物も、物理を無視してまだ、あり続けるのだ。
令和が始まるまで、あと一週間も無い。
片付いたのか、違うのか。
ちょっと令和を前に、不意に数日前のネタなんかを読み上げ化。
大事な話ではあるのだけど、まあ。