ストレスはある。
つまり昭和の頃の様に出来ない!って憤って、特攻するかさせる結果で大破に成る。
”それ”はしかし、自分の思想?ではないから、なんか、認識で自分の責任に成らない。
しかし事実は事実で、一回地雷踏むと、なんか後戻り出来なくなって、他に原因を向けながら、つまり自分は悪くないので、同じ様な過失を繰り返す事に。
その結果、うっすらとした重い過失が「ゴミ」を呟き続ける中で、なんか歪んでいく?
良く無い結果しか出ない。
”それ”は過失の無い人々に、重い不快がどうしても発生する。
何をやっても「同じ結果」だ、暴言も出る感じ。
何もするな、しゃべるな、棺桶に入って出てくるな、そんな。
昭和の頃なら、「通った話」なのだ。
しかし「そんな特例は認められない」と、或いはビルゲイツ氏から否定される感じ。
”それ”は日本の、古い悪習か”良識”だろう、しかし。
「それは正しい」と言う意識から見える世界は、存分に歪んでいる。
排除すべきゴミは居るのだ。
ただ現状で、”それ”を排除しようとすると逆に、自分がどんどんゴミに成る。
排除しようとする相手も、結論では「同じ感覚」で、その過失に至っている。
衝突する理由は似ている、昔の正義を今に!そして許せない理由も”同じ”だ。
「紛争解決機構」大賀さんは、ここに介入はしている。
ただ、機械だけに、「何故?」は説明しない、ただ結果として「失敗」損失、それをそこに置くだけだ。
感情論的には同意出来る部分も有る、「お前の様な奴には成らない」と全否定した相手と、”同じ職場”で働かされようとする、そんな否定感。
感覚が、ちょっとマクロに成り過ぎてる、古い昭和の感覚の結果と言うべきか。
「働く」と言うニュアンスに踏み込む時?そこには、その汚物が居るのだ。
”働く”事が出来ない。
まして、或いは売春婦、その領域にも行けない、”そこ”にはあの汚物が来る。
せめてその汚物さえ居なくなれば!しかし、それを排除すると言う事は実は、物理的には自分を排除する事に成る、「特権意識の怪物である」事は変わらないから、だ。
感覚の帰結は、あるのだろうか?