オーダーも無しに創ると、必然的には思想書みたいには成る。
諸問題は或いは、同じ何かとしてそこには出てくる訳だが。
ともかく「ヴリトラ・ヘキサ」のゲーム実況?意外と言うか当然と言うか、中々重さのある感じにはなってしまって。意識はする、これはあの「美鶴さんの長い妄想」それからの?何かのインスパイア的な奴なのだ(ろう)けど。そうとも言えない程度にオリジナルがあって、なら或いは製作者の願いと現実、そこには多分、異相が有ったろう、そう言う。ゲームセンター版は、そこにちょっと補正をしたにしろ、それは「天聖龍」その皇帝創作と言うか、本来なら親を助けに行く筈が倒しに行く話になってしまった感が、ちょっと懸念としてあり。その結果というかで、色々と、衝動。
まあ結局、自身の前には自身その物が、敵として現れるのだ。
そして、それを倒す時、自身の膨らんだそれもまた、何かの幻となっていく。
「今は」なのか、それとも昔からの話か、ではあるが。改めて「独裁創作は売れない」そう言う納得には至る絵ではあり、自分的には納得と共にオチに成った、訳だが。或いは「美鶴さんの長い妄想」その経緯と顛末、みたいな、そんな感じだったろうか。その壁を超えた時、それは自身の威容?その喪失を意味するのだ。
しかし、現実に目を向けるなら「資本論」それは、”こういう事態”を越えようとした、そんな挑戦みたいな物、だったのかもしれない、そしてそれは今も、何かの継続中ではある訳だ。資本主義に対して共産主義が誕生、それは戦争を起こし、その後も冷戦構造を長期に渡り継続。今も尚、何かの経済的問題を世間に現し続ける、その或いは土台に為ってしまっている、これは。果たしてこのままでいいのか?と言うとそこには疑問はある。
元は「王の権威」が創ったモノで有るなら、今居る「王の権威」それの感覚の方が、上ではあるまいか。資本論、その内容には不足がある、それは何らかの改訂?感覚の変化、そう言うのは必要だ、この先も、同じ間違いをしない為には。
「付加価値の付け方」ではある、不足しているのは。
人々が求める無形なる物、そう言うのを載せていく事が、そこに価値を発生させる。
今回のそれが、何かの具体例だったら一つの実例には成るのだが、果たして、だ。
「何」を目指して、”それ”は創られたのか。
価値の有無それは、それ如何である。
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