「不正」と「不満」の衝突は有る。
成功への強い欲求が有る時、そこに「黄昏の狩人」が、有って、それをその視点では「どうでも良い奴」低レベルな、イジメても構わない、”そう言う奴”が持ってた。
”そのまま”なら、「そいつ」が、自分より先に行くのだ。自分の創った物は認められなかったのに、だ。自分の方が遥かにレベルが高いのに、だ。この程度で、それは勝者に成る。
…それはまあ、道理がある。
その「虐めても良い」と思う感覚が、作品の評価を著しく下げる訳だけど。
感情論は、そこに重くある、誰だって嫌だ。
その感情論が、今も無視し難い事態を、招く。
実感は有るかもしれない。
カウンタ制御で一位のフラグを向けられても、集まる疑念に耐えられないのだ。
その場にそれが有る時、そこには相応の理由が有って、有り続ける、と言う事は、相応の資格を有する、と言う意味には成るのだけど。
ニコニコ動画なんかは、或いは「黄昏の狩人」それを土台にするから、か。”上下が発生する”事に、何かの強い否定感が有って。カウンタの数値も何か、何かの群れと共に、適当な指向性を持っている、訳だが。
矛盾と共に、ともかく「大賀さん」を前に認められた様な、そんな事態は続いていて。
だから、だろうか。
「特権」それに対する反発、それはやっぱりそこには有る。
自分としても、作品より個人に視線が向く、のはあまり望まない部分はあって。
暗黙の了解、そう言うのは納得せざるを得ない、「大賀さん」もある、それが認めていたら?それ以上の事は出来ない。
とは言え、対価が得られていない、そう言う感覚は残る。
「妨害」と言う観点で、以前の「中華思想の皇帝」その残り香が、と言うのも感じる。
特権と、対に成る”皇帝”だ。
しわ寄せは何故か、元「王の権威」には廻ってくる。
道理としては、どっちにしろ「犯罪の容認」の様な話だろうか。
理想の為に評価を弄るのと、上がらない評価の憤りを盗んだ相手に向けるのと。
ともかく、末端は困っている。
しかし”ここ”が期待?する様な結末は「良い結果」か?と言うと謎だ。独裁創作に拘る「中華思想の皇帝」その残り香は、自滅的に消えて行って。
他の人々は、何かの楽園に至る訳だ。
結論で、独裁者に成らんとした、その果てだ。
因果か、理不尽か。