あげちうのブロマガ

不意に「いらない」を自覚する時

微妙な衝突はある。

一つの作品がヒット!した時、しかし、それは”今までなら”慣例の様に、必ず許可を得ねばならなかった所を通して無かった、場合。

しかし、それは今はもう、明確にはその監査?的立場では無く、自由市場と言う観点ではその存在はむしろ好ましくない、場合。


…とは言え、今までなら「重視せねばならなかったモノ」を、無視する、その是非の様なモノは、ふと…そこには有る。


不意に出来ていた、朝日新聞社の社主を頂点とするコンテンツの統制構造、というモノは今、「ストリードは出てます」さえ満たしていればほぼ、現場の自由に制作して良い、のだが。この結果、今までなら「私を通して貰わないと」的な存在は、もう”いらなくなった”訳だ。この時、今までは何かの影響力を持った存在は、その立場に大きな否定が発生する、そこにストレスは、ある。

いらないんでしょう?

だから、正論、という観点では無視して良いしかし。実際には何らかのストレス、”それ”はそこに発生し、それが打開される時、それはより、「いらない」そう言うフラグは強く立つ訳だ。

無理を通して良い状況か否か、少し不安はある。

また、或いは。平成の始まりに犠牲に成った?存在も、実際にはこういう感じで潰された、のかもしれない。「昭和天皇」と何らかの懇意だった結果、そこが妙な影響力を持ってしまったが、それが居なくなった時、それは今までの否定にそのまま襲われた、様な。言葉としては「今までよくも好き勝手やってくれたな!」と反撃されるシーンだが、その結果が売春婦の強姦致死、という絵ではあまり、好ましくない。

…とは言え、結局今も、自分の状況が”このまま”である理由も、そこに有る何かの特権、それの可能性はある訳だ。そう言うのが無くなる時、自分も自由が得られる?としても、それと共に平成の始まりに起きた破綻、”それ”が発生したら、それはむしろ逆効果にはなる。

頭の悪い存在が、寄生してた権力を失って、今までの理不尽を仕返しされているだけだ。

任天堂のswitchは、本当に売れているのか、居ないのか。

そして、”それ”は明らかにすべき事か、否か。

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