簡単に言えば、使ってほしくない訳で。
「ドリームスタジオ」中古屋で280円で発見、つい購入。
存在自身知らなかったが、内容的には想定以上に本格的なイメージではある、多少の期待感と共に起動するも。
動かない。
設定してるのに?
…おや?
ともかく四苦八苦しつつも全く態度を変えない相手に数回諦めつつ、やがて気づく。
「”ゲームを遊ぶ”でやってみたら?」
メニューには「ゲームを創る」と「ゲームを遊ぶ」その二つがあるのだ。
そのどちらにも、「プレイ」その同じ文字が有り、”見た目的には”何の差もない。
ともかくゲームにも成ってない、単に村人が「こんばんわ」を言うだけのそれをセーブし、「ゲームを遊ぶ」で起動すると、設定した内容が、ちゃんと反映してる。
少し、徒労感。
そして同時に、何かの熱意も一気に消えたりして。
いろいろ考えるに、これを創った?人々は、”これ”により外部のユーザーが作品を創る事に対して、あまり肯定感が無いのだ。
DC末期の、何というか追い詰められた末のそれである、しかし。この内容は「それでも」その自身らの主義主張を優先した、当時の現場感覚が、割と薄ら残っているのかも。
考えると、「実際にゲーム制作に使用していたツール」を再整備した、と言うニュアンスでさえある。
という時に見えてくる情景として、「自分らはプロである」これを使っている、と言う事がその証である、そんな、妙?なブランドがそこにはあったのかもしれない訳だが。
”それ”を売らねばならなくなった、訳だ。
当時は。
自身らのプライドの土台が失われようとしているが状況としてはやむを得ず…しかし。
残ってしまう執着が、或いはこの壁を残してしまった、そんな感じだ。
会社がヤバいんですけど。
それでも、彼らは「ユーザーの願いを叶える」そう言うベクトルに舵を切らなかった。
そして、このツールもまた、DCと共に、内部的には悲痛に、外部的にはひっそりと、消えていく事に成る。
自分とは、根本的なスタンスがまず違う、そんな感じはする。
自作のASPは(自分の感覚では)まだ使えるが、「ドリームスタジオ」はダメだ。
主観だ、しかし。
選ばれし者にしか使えない!と言うブランドが当時、いかに大事だったか。
そして”それに価値が無い”と言う、その結果が如何に絶望的だったか。
そして懸念としては、”これ”は、今のツールにも、実は色濃いかもしれないのだ。
RPGツクールシリーズはおろか、例えUnityであろうと、だ。
MMDも、実際にはその傾向は色濃い、数多のエフェクトを駆使出来なければ。
ASPみたいに、MMD単体で十分市販品に成る!みたいなイメージは無いのだ。
ASPってそうなんか?
実際今の環境では解像度も低いし、ライブラリからOSから機能的なブロックを掛けられてるから、実用性と言われても、ちょっと問題は有るが。
全く、その「誰でも使える」その部分には、酷い位のウェイトが載ってしまって…今でも実用性能が出てない。
選ばれし者にしか使えない!と言うブランドを、今も世界は、諦めてないのだ。
ゲームのIFも複雑化する一方なのは、だからではある。
まあ、どうでも良い話かもしれない。
SEGAの未来は、どっちだ。