あげちうのブロマガ

青い海と深緑い島の境目

「面白い」は、混沌ではある。

小さな世界の話かもしれない。自分と言う魔物が居て、”それ”は「範囲」を逸脱する可能性を常に抱えており、「余分」過剰、それは常に発生する。”それ”を「問題」或いは「敵」と認識して、自身が問題を起こさない為に、”それ”を確実に潰せる世界を求める、時。そこに「デッド・バイ・デイライト」そのイメージはある訳で。

「支配者」或いはパワーある存在にしたら、好ましい?イメージが見えない事も無い、が。ただその結果、”そこ”には「釣り」と言うか、一人は確実に潰せる、と言う様なそれが出来る訳だ。これは「クラウンズ」の感覚、その想定には成る。「何の罪もない奴が、その領域に入ってしまい殺されるのは良いのか?」流石に良識として、ゲーマーを「チー牛喰ってそう」そう蔑視するのは、ゲーム屋のスタンスじゃない。「客の中で殺して良い奴が居る」と言う認識を、その市場に向けると言うのは…いかがなモノだろう。ゲームが何故、次の「王の権威」その土台に選ばれたか?だ。そこに居る全ては平等である、そうで無ければ成らないと言う理念を物理的に形成してるから、では。

「デッド・バイ・デイライト」このゲームデザインはつまり、客の一部を自分の排泄物か何かと認識してる、と言う事に成らないか。

…とは言え、上記の様に、権力者、パワーある存在それにしたら、そこには何かの理想と言うか…そう言うのはある訳だが?

そうだろうか。

「クラウンズ」が、想定する状態になる、なら。今後は”これ”は、形成前に否定されてしまう事には成る。その後、無理矢理造っても、「認めてない」と言うそれは、例え失敗しても問題には成らない、訳だ。現場が勝手に暴走しただけだ、現場の担当者に責任を問うだけだ。と言うそれを、権力と見るべきか否か。その先にも、「デッド・バイ・デイライト」その、キラー側の立場、そう言うのはある。

面倒なのだろうか。

PCゲーム市場は、そう言うのを無視して”本来は”存在はする。売れるか売れないか?それはあくまでも現場の責任でしかない。犯罪性さえ許容するのがそこだが…それだけにか、期待する市場規模、それは無い、と言うべきだろうか。コンシューマ市場とは、つまりは「クオリティコントロールを受け入れた市場」と言う意味ではある。市場は”それ”に対して信用し、そっちをメインにしていて、流れとして或いは、PC市場も結局はそこの影響に逆らえなかった、格下扱い。結果として有る絵だ、「売れるモノは店頭に並ばない、売れないモノしか創られない」そんな絵が、平成には強く現れていた。「クラウンズ」に相当する部署にとって、「売れるモノ」は自身らが抱えた犯罪性、”それ”を暴露しかねなかった。それを否定する時、コンシューマ市場は壊滅的な事態へと陥る。

誰が、何が悪かったか?を問うのは今更ではある。

ともかく”それ”は、売れるのかどうか。

問われている。

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