そこに有る壁、だ。
「新世紀エヴァンゲリオン」は今も、多くの混沌を残しては居る。
不思議でさえある、当時の自分も、実際にはかなり熱狂的でさえあるファンだったのだ。今は無き「レーザーディスク」も、実際はかなり買ったと言う経緯があり…しかし。それは何かの逸脱を始め、自分もそれで、かなり冷ややかに成ってしまった。
映画版のそれでエヴァンゲリオンは終わったのだ、時々語られる、重い正論ではある。
今もってなお、”ここ”の下敷きに自分の「黄昏の狩人」が敷かれていた、自身は勝手に人柱にされていたのだ、そう言う事には、ある種の疑念さえある。
それはもちろん、現場で関わった人々にしろ、同じ意識は有る筈で、だから。
何かの重要さと共に、どうにも、スッキリしない何かは残っている。
そう。
現状の「エヴァンゲリオン謎解き」を考えた人間からすると、夢オチからのリスタートじゃない?と言う、気はするが。
そうなると、”それ”を使うと言うなら、「所有権と言うかの問題が出てくる」のだ。
しかし、そもそもこれは、「黄昏の狩人」を土台にしての成功ではあり、”ここ”の存在は土台として重要ではあって。
…これは”ここ”の認識と把握だ。現場もそこに依存してる全ても、それは認めてないが。
「黄昏の狩人」の存在と、「エヴァンゲリオン謎解き」を書けたって意味では、今は”ここ”がエヴァンゲリオンの作者、という感覚は、うっすら間違いでも無い訳で。
庵野氏らは、”ここ”が要求していた”それ”を描いただけ、と言うのは把握としては、”ここ”は安定する。
ただ、それまでの人々にはかなり安定しない物言いではあり。
「これは我々のモノだ」我々がその富を独占して何が悪い、と言うのはそこに有る、大きな邪としてあり、しかし、同時に凶悪な壁を創ってる、と言うのもある。面倒なのはそれでいて、責任への要求その物は微妙に”こっち”に来てる事だ。創作の意味やら理由やら、それへの疑問は本来の(土台の)作者に流れてきていて、”これ”を切ると或いは、エヴァンゲリオンの現場?はそれを維持出来ない、それは「ヱヴァンゲリヲン」の現状としてあり。結果、そこには大いなる混沌が有る。
誰が作者なんです?
喪失への否定と、現実と、結果と、発生してしまった悲痛と。増尾昭一氏が亡くなった後も、この混沌は今も、曖昧に都合のいい事を目指している訳だが。
「彼らは、”ここ”が期待するモノを造っているのだ」
と言う時、では自分は今の「ヱヴァンゲリヲン」を認めているのか?と言うと、それは無い。現場は、自身らがこの場の所有者である!と言う事を主張し続けているだけだが、それは市場的には、或いは否定されている。増尾昭一氏の、死んでも残る断言の様なモノかもしれない、”それ”を持ち続ける時、彼らは概念的には、利益性に対して逆走する。
下層なる持たざる者が、都合のいい事を考えていて。
特権を持った支配者が、それに対し非道だと責めている。
そんな終わり方で良いのか。