大いなる心労ではあって。
「中華思想の皇帝」を求める人々が、皇帝に何を期待するか?と言うと、「お金を下さい」勿論、それしかない。前の、平成の間の皇帝は、その辺上手くやったのだ、まだ自覚無き「王の権威」を、ファンの中に取り込む事に成功してた。その「ファン」が創った「黄昏の狩人」それを土台にする事で、”そこ”から色々な物を吸い上げつつ、「皇帝が」それを創った事に出来た訳だが。その15年くらいは、インターネットが今の形に成る位までは、それほど問題には成らなかった、のだが。
ともかく、今も、「前の様に!」それは求められ、新たなる皇帝もやっぱり、何やかやと「王の権威」を土台にしようとする、訳だ。その重大なゲートに成っていた「黄昏の狩人」それは今、「最終的なマスターは(0±0)神様です」と言う帰結を組み込んで修正した結果、皇帝は”それ”から王の権威を恐喝する事は、出来なくなった。
結果、ゴーン氏も起訴され、スマホは売れなくなり、ソフトバンクも苦境に陥りつつある訳だが。それでも、王の権威は少なくとも、彼らの視点では居るのだ。そいつさえ何とか出来れば、この苦境は何とも。前の皇帝は出来たのだ、なら。
だが、その果てに、池袋暴走事故は、発生する。或いは新たな「中華思想の皇帝」それが、要求される”お金”を用意出来ないのに取り立てられる時、社会的な価値の喪失、”それ”は、それとして発現する訳だけど。
「なんで王の権威に権力が発生しないのか?」
その邪悪なる皇帝!を倒せるような。そこは、やっぱりよく考える話。ともかく今の理解で言えば、「それを手にする時、王の権威はその権威を失うから」だが。現状の最上位は、「大賀さん」紛争解決機構、である。”これ”と自身の意向は同じである、とする事で、自身への要求、そう言うのを回避し得るのだが。この時、結果的には、独裁創作の換金を要求する人々は、得られないか、何らかの加害を発生させるか、どっちかには成る訳だ。
前者ならまだ良い、それは殆どだ。しかし、後者が「出来る」人々は、まだ居る訳で。末端がどれだけ死のうが犠牲は付き物だ、命はそう、尊いモノとして、頂かねばならない。
その理解で言えば?加害性は、独裁創作での利益性、それを求める人々にこそ責任は有る。しかし、「その方が良いだろう?!」そこにも重い同意は有る訳だ。結論では、大衆の中で、「我慢しろ」と「我慢出来ない」層とが、対立、戦争状態にはなって。それは第三者の介入が期待出来る状態で無いまま、形而上での騒乱を続けている。
”それ”は日本では悪だが、アメリカ、ともかく大統領制を掲げている、その他大多数には正義だ。「強力な武力こそが平和を齎す!」或いは水爆を、”自分だけが使える”時、それは、自身が世界を支配し得るのだ。
そう言うパワーに、「大賀さん」紛争解決機構は勝てるかどうか。
それは数百人が犠牲に成る様なテロさえも、結論では容認?する事に成る。
中華思想の皇帝、”その支持者が”何人犠牲に成ろうが、それは悪の先兵であり、道理だ。
正義が悪を倒す時、悪が上げる悲鳴それは、何か。