失望と言って良い光景だろうか。
その部屋には、奇妙なケージがある。
中には一匹かのラットがいて、そして回し車がある。
ラットがその廻し車を回すと、給餌口から餌が出てくる。
ラットはそれを食べつつ、暫くすると「トイレ」で排泄し、寝て。
暫くして起きるとまた、回し車を回す…その繰り返しだ。
問題なのは、このケージが、構造も含めて「他の構造に繋がってない」事だ。
誰かが餌を入れてる訳でも、トイレの掃除をしている訳でもないのだ。
”何故か”給餌システムが、回し車を回す事で、餌を排出する。
ケージ内は何故か、衛生的には保たれている、排泄物はトイレに消えていく。
ともかく”これ”が、世界の中心、「物理の根幹に有る光景」だった。
…そこには、「神様が暮らしている筈だった」のだ。
そこに居たのは小さなラットと、それが暮らすケージだった。
ラットから、その光景から、それ以上の”何か”を得る事は出来ない。
理解する事は出来る。これは物理的な無限性を示す一つのモデルだ。
ケージは「裏の世界」と繋がっていて、それとリンクする事でこの構造を創る。
”これ”を知ったから、何か変化が有る訳では無い。
ともかくこの構造は無限性を持ち、ラットが走るのを辞めない限りは、続く。
ラットにしたら、「走らないと餌は出てこない」のだ。それは理由に成る。
単にそれだけ。
「神様」その部屋にいる存在には、それ以上の理由、衝動もないし、問いに応える様な感覚?それも無い。
有り触れた光景、だ。
動物番組で、良く見る”それ”でしかない。
ともかく、安心はできる。
ただ、安心?するには、相応のレベルは必要なのかもしれない。
「星の赤子」が居る筈の部屋に今、星の赤子はおらず、このケージはある。
それは無限性を示しはするが、特に要求も、啓示も、神託もしない。
自由ではある。人の自由意思を制御する様な何かは”ここ”には無い。
何を選ぶかは、人それぞれな訳だ。
ラットはただ、回し車を回している。
一つの帰結として。