あげちうのブロマガ

淀む意識の椅子

意識の中では、淀んでは居る。

脅威の源泉は今もまだ、その源泉で有り続けている感じはする。
自身は神なのに、何というかあらゆる点で、事ある毎に邪魔されるのは何故か。

「新聞記者」さえそんな、売春婦を強姦し自殺させる、なんて過失さえ起こさなければ。愚民に”これ”にケチを付けられ否定される、様な事にも成らなかったのに。

そこにはふいにあの、「アルベルト・アインシュタイン」その”座”があって。
「星の赤子」2001年宇宙の旅、そのラストに有る何か、だ。そこには席が有った。

…誰かが、かなり昔に”そこ”に座った、訳だが。
ただ”それ”は結論で何故か、利益に成る事は無かった。
ケチを付けたのは、「昭和天皇」である。それは好ましくない。

衝突はその時から、静かに発生した訳だが。

ともかく当時であっても昭和天皇が、或いは「私は神だ」そこまでは言わなかったろうか。

もちろん、実際にはアインシュタインだって、そんな事は考えてないのだ。
「知らねーよ神様にでも聞け」そんな言葉に対して、後世の人々が勝手に神格化したに過ぎない。

そして彼の死後、”その座”がそこに残っていて。
「神様何とかして」を求める人々は、それを探し、そこに至って。

そこに入った人は不意に、自身を何かと或いは誤認した、と言うのはある。

当時の、まあ昭和天皇の認識だ、日本は核弾頭を落とされ戦争に負けた。敗者が王を名乗るのはおかしい。「そこに王の権威が有る」結果、世間の認識は”それ”に支配され、昭和天皇の認識が世間を覆う訳でその果てに、アインシュタインの椅子は、或いは「神の椅子」に成った、訳だが。

ただその結末として、部下だろうか、その「新聞記者」それは、女性を強姦し殺した。

それは或いは、日本に原爆が落ちた、”そう言う絵”だ。

”それ”さえ無ければ、アインシュタインは王の権威のままだったのに。

それは思想と言うか、その限界ではある。


状況は、想像出来る。
昭和天皇の理解を土台にして、アインシュタインの椅子を「神の椅子」と誤認した存在が、昭和から続くカルト、その基幹に成ってしまった訳だが、それは結末として部下の「新聞記者」その破綻を招いた、しかし。アメリカが公式には敗者に成らなかった様に、それもまた、情報としては歪んだ訳で。

現実は覆らない、のだろう。

新聞記者は女性を強姦し殺したが、権力は”それ”を隠蔽した。
しかし結果、「その過失が消えると言う事は無かった」訳で。

納得しても、結果の過失は消えない。


ただ、結果としては、なら妥当だ。

説明は出来る。皇帝創作は何故ダメか?と言う程度には。

納得は無い。

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