水曜日のの事。叔父の生活保護の決定通知をもらい、大方の目途はついた。
「終わったら飯を食いに来い」と言われていたが、実家に着いたらら22時を回っていた。
最初に書いておこう。弟に言われた事。
「兄貴。ネット立ち上げてフラッと立ち寄る所が、まとめブログか、ライブチャットなんて人間としてクズやで」
爆笑した。お説ごもっとも。帰宅した時に「さっきは言い過ぎた。ごめんよ」とメールが届いていたが、こちらは怒っていない。
「気にすんな。おやすみ」と返信した。
叔父は、もう1人では生きていけない。そう確信した。
水曜日に兄叔父と2人で叔父の家に行った。その前に大家さん家に立ち寄り、書類をもらい方々、現況を聞く。
「あの頃かなぁ。昨年の11月くらいに自転車を盗まれましてね。それ以来、ピタッと外出しなくなりまして…。」
その自転車は2年前に見た。祖母が私に買ってくれた自転車。盆暮の時期、自分は祖母宅に預けられていた。
店が忙しく、子供の世話が出来なかったからだ。物心つく前から自分は夏休みと冬休みの時期の一部を祖母の家のある田舎で暮らしていた。友達もおらず、毎日、祖母と2人っきり。祖母は優しかったが寂しかったのは言うまでもない。買ってくれた自転車で一人緑豊かな山あいの道を冒険する事が楽しみだったが、祖母があまりにも心配するので冒険は、そこそこの所でやめていた。
祖母が亡くなった後、その自転車は叔父が形見として引き取っていた。鮮やかなミントグリーンのフレームの色は、くすんで、あちこちにサビが出ていて、走るとギーギー音がする。そんな自転車を「オカンの形見やねん」と、乗っていた叔父。2年前にその自転車と再会した時、自分も祖母との思い出が鮮やかに蘇って来たのを覚えてる。
先週、3人で来た時に「あれ?オカンは?オカン来てたやろ?声がしとったで」と言ってた叔父。
兄叔父と母親に
「何言ってんの。もう死んでもうたのに来る訳ないやん。おかしな事言うなー」と言われていたのを黙って見ていた。
叔父も寂しかったのだろう。母親を亡くした悲しみは子供の誰もが経験する事だ。その母親との繋がりが心無い者によって断ち切られ、叔父の心の糸と言うか、何かが切れたのかもしれない。母親のように子供もおらず、兄叔父のように孫もおらず。ずっと1人で暮らして来た叔父。自分で勝手な妄想が膨らみ切なくなった。
しかし、そんな感傷的な思いは、すぐに吹き飛んだ。
先週、必要な書類を家探しして見つけ出し、銀行の袋にまとめて食器棚の引き出しに入れた。それを取り出そうとすると、袋はあったが中身は空っぽだった。
「叔父さん。俺、先週『大事な書類やから、ここに入れとくな』って、なおしたのに触った?」
「いやー。触ってへんで」叔父は、いけしゃあしゃあと答える。
(嘘だ)その引き出しには当面の生活費として兄叔父が数万円入れた銀行の袋も入っていた。恐らくお金を出そうとしたものの、書類が入った袋を開けてしまい、自分でも訳が分からず中身を出して、どこかにやったんだろう。叔父に悪意は無いが、不安に襲われる。
(こんなので本当にやっていけるのか?)と…。
もう一度、行方不明になった書類を探す羽目になる。それは、あちこちに散らばっていた。1Kの狭い部屋なので隅々まで探すのは、それほど難しいものではないが、せっかく揃えた物をもう一度、探し回るのは心が萎える。
幸いにも書類は全て見つかり、役所に出かける事にする。しかし無駄な時間を食った。もう昼前だ。役所には午後一番で訪ねると連絡を入れ、役所に向かう道すがら昼食を取る事にした。
駅に向かい地下鉄に乗る。1回乗り換えて駅を出る。この間、4~5回くらい同じ会話をした。
「ロンちゃん。どこ行くの?」
「どこって、叔父さんの生活保護費を受け取りに役所に行くんだよ」
「あぁ…。そうか。そうやったかな?」
ここまで兄叔父は相変わらず何も言わないし、何もしない。駅から叔父宅へ向かう道も、役所へ行く道も覚えていない。
いいかげんイラついて来た。いつもなら叔父たちに気を遣って定食屋とか和食のある店に入る所だが、ロイヤルホストに行き、サーロインステーキで一番大きい奴をフルセットで頼んでやった。
「若い人向きのもんばっかりやなー」と兄叔父と叔父が呟くが、無視。
「ほら、とんかつ定食あるよ。ごはんと味噌汁付」と唯一の和食らしき物を勧める。
会計はもちろん兄叔父持ち。少し可哀そうになったので、JAFの会員証を提示し、10%割引いてもらった。
そして区役所へ。必要書類を渡して、晴れて生活保護決定通知書をもらった。併せて医療券も渡される事となった。
「どこか希望の病院や、かかりつけの病院はありますか?」と尋ねられると、叔父が
「あー。○○胃腸病院…」と言う言葉を遮って「△△病院でお願いします」と頼んだ。
△△病院なら叔父の家から徒歩で行ける。そして大きな総合病院だ。これから通う事になっても、あっちの病院、こっちの病院と渡り歩かないで済む。待ち時間は相当長いだろうが…。
「叔父さん。健康診断して他に悪い所が見つかっても、あちこち行かんで済むし、その方が付き添う兄叔父や母親も楽やねんで」と諭す。
「あ…。あぁ…。そやな」叔父は納得した訳でもなく、不服そうにしてる訳でもなく、ぼんやり力なく答えたように見えた。
後は、国民健康保険証と後期高齢者の保険証を返納する。書類をチェックしている役所の人が
「ロンドさん。書類が足りませんよ」と言って来た。前回、必ず見つけて欲しいとわれたう年金の現況届だった。
「え?これじゃないのですか?」と自分は1枚の紙を抜き取り、役所の人に見せた。
「それは現況確認書で現況届は別にあるんですよ」
(あちゃー)持ってきた書類には住所、名前を記載する欄があったし、現況と言う文字もあったので、てっきりそれかと思っていた。大体、まだ年金を受け取ったことが無いのでそんな書類は半分、分からないまま探していたし。
「でも、まぁ、この確認書があるだけでも大分、助かります。年金基礎番号も記載されてますし」
「ほんとだ」もう叔父に聞いても年金手帳のありかなど分かろう筈もない。家探ししても年金手帳は見つけられなかった。
「1階の保険課で用紙をもらって、記載事項を書いて、これ(確認書)と一緒に送ってくれれば年金の振込は再開されます」と役所の人からアドバイスをもらった。
「年金の振込が開始されるまで、その分は保護費で補てんします。後で返して下さい」と言われる。
しかし年金と言うのは腹が立つ制度だ。積立金はこちらが何もしないでも、どんどん徴収するくせに、いざ、受給できる年齢になっても「申告しないと」もらえない。しかも変更があれば、その都度、いろんな紙を渡される。そんな難しい事を年寄りにさせるのは酷と言う物だ。
続いて保護費が手渡され、借りていた緊急支援の5,000円を返す。そして担当のケースワーカーさんを紹介された。
ケースワーカーさんから生活保護に関する説明と、注意事項を言われ、それらを書いた紙に署名・捺印。
「分からない事が出てきたら読み返して下さいね。それでも分からなければ連絡してください。あっ、そうか叔父さんは、携帯とか持ってなかったんですね」と言われ
「ええ。携帯は、ここでの手続きが終わった後、契約しに行きます」と答える。
「それと叔父さんの家にはテレビがありますか?」と聞かれる。
「いや、見てないです」と叔父が答えるのを無視して
「あります。ちゃんと映ります」と答える。
「でしたら、これも書いて郵送して下さい」と紙と封筒を渡される。生活保護者はNHKの受信料が無料になる。但し、生活保護を受ける以前に滞納していた受信料は払わなければならない。渡された物を送れば、先の受信料の徴収がストップする。
後は法テラスの説明を受け、次回の生活保護費を取りに行く日にちを教えてもらう。それ以降は銀行振込になるよう手配した。
叔父2人を「ちょっと、そこのベンチで待ってて」と相談室から追い出してケースワーカーさんと2人で話をする。
叔父はとても1人では何もできないだろうと言う事、ケースワーカーさんは、どれくらいの頻度で叔父宅を訪問してくれるのかと言う事を質問する。
叔父の様子については「私も、そう思います」と同意してくれるも、訪問頻度は3~4か月に1回程度。もし自分のような者なら「働け!」とガミガミ言われる頻度が減って助かるが、叔父のようなケースでは頻繁に訪問してほしかった。
しかし、無理もない。テレビや本で得た知識だが、ケースワーカーさんは1人で40件以上の担当をこなす。叔父だけに、かかりっきりになる訳には行かない。
2人を呼び戻し、叔父に提案する。
「叔父さん。どうだろう?ヘルパーさんを頼んでみない?ご飯作ってくれたり、洗濯や掃除をしてくれたりして叔父さん助かると思うよ」
「私も同感です。是非、そうしましょう」とケースワーカさんも口を揃えてくれたが
「大丈夫!ワシは1人で出来る!」と答える。兄叔父も、たまらず
「叔父。そうした方がええって。そんなん自分で出来るんか?」と言うが
「大丈夫!出来る!ワシ1人で出来る!」とキッパリ言い切った。叔父にもプライドがあるだろうし、ヘルパーを頼めばお金もかかる。しかし、叔父の言う「大丈夫!」は酔っ払いが「オレは酔ってない!」と言ってるのと同じだ。
つづく
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