今朝、ラテン語の先生が亡くなったという電話があった。
先週の金曜日の夜、授業を受けたばかりだったので
本当に驚き、悲しかった。
1月に体調を崩されて入院したと手紙が届いていたので
先週金曜日の授業前に
「大丈夫ですか?」と尋ねたときに
「私は大丈夫ですよ」と言われたのに。
その日も私は早めに行き、授業が始まる前に、
課外授業ともいえる写本の解読の宿題のことで
「エッサイの芽が吹いた」の箇所や、「燃えない柴」のくだりなど
出典を先生と確認したりした。
その後の授業もいつも通り退屈させない内容だった。
あれが最後の授業になってしまうなんて
思いも寄らなかった。最後の授業の締めくくりは
4月22日の復活節第三主日の祈りについてで、
ヨハネ21.1-19からイエスがペトロに3度も
「私を愛しているか?」と尋ねて
ペトロが悲しくなったというくだりだった。
日本語ではどれも愛している、だが、イエスが問うたのはdiligo(敬愛する、霊的な愛)であり、
ペトロが答えたのはamo(恋愛の愛)だった、云々という話だった。
diligoはagape(アガペ)の愛です、霊的な愛、
見捨てないという愛です、と強調されたのが印象的だった。
奇しくもこの復活節第三主日が命日になってしまった。
先生のライフワークだったのじゃないかな、と思える
時祷書の写本の解読に少しでも関わりたかった。
本当に無念です。でも祈るしかないですね。
先生に永遠の安息を。
先週の金曜日の夜、授業を受けたばかりだったので
本当に驚き、悲しかった。
1月に体調を崩されて入院したと手紙が届いていたので
先週金曜日の授業前に
「大丈夫ですか?」と尋ねたときに
「私は大丈夫ですよ」と言われたのに。
その日も私は早めに行き、授業が始まる前に、
課外授業ともいえる写本の解読の宿題のことで
「エッサイの芽が吹いた」の箇所や、「燃えない柴」のくだりなど
出典を先生と確認したりした。
その後の授業もいつも通り退屈させない内容だった。
あれが最後の授業になってしまうなんて
思いも寄らなかった。最後の授業の締めくくりは
4月22日の復活節第三主日の祈りについてで、
ヨハネ21.1-19からイエスがペトロに3度も
「私を愛しているか?」と尋ねて
ペトロが悲しくなったというくだりだった。
日本語ではどれも愛している、だが、イエスが問うたのはdiligo(敬愛する、霊的な愛)であり、
ペトロが答えたのはamo(恋愛の愛)だった、云々という話だった。
diligoはagape(アガペ)の愛です、霊的な愛、
見捨てないという愛です、と強調されたのが印象的だった。
奇しくもこの復活節第三主日が命日になってしまった。
先生のライフワークだったのじゃないかな、と思える
時祷書の写本の解読に少しでも関わりたかった。
本当に無念です。でも祈るしかないですね。
先生に永遠の安息を。