フランスの画家。キュビスム運動の一員としていわゆるダイナミック・キュビスムの開発に重要な役割を果たし、のちのには機械と人間とが調和する現代生活を描くユニークな画風で20世紀美術に独自なイメージを生み出した。ノルマンデイーのアルジャンタンに生まれる。カン建築を修業、1900年パリに出、やはり建築家、写真家のもとで生計をたてつつ、1903年兵役終了後パリ装飾美術学校に入学、同時にエコール・デ・ボザールのレオン・ジェロームの教室、アカデミー・ジュリアンにも学ぶ。1904年及び1907年のサロン・ドートンヌのセザンヌ展に刺激され、他方、ロベール・ドローネー、アポリネールたちの接触によってキュビスムにも接近し、その成果が1909~10年制作の『森のなかの裸体』(オッテルロー、クレラー・ミュラー美術館)として発表される。その後も色彩とダイナミズムを重視するキュビスムをドローネーたちとともに展開させる。
1912年カーワイラー画廊で最初の個展、第一次世界大戦に従軍、毒ガスのため入院。戦後の1918~23年は「メカニック時期」と名づけられるロボット風の形、歯車などの機械的なイメージによる形態と色彩の対照と調和を求める。1919年の『都市』(パリ市立近代美術館)がその代表作。その後、しだいに彼の軸象的な形態に人体が入り込み、作風もモニュメンタルな大きなを求める。1924~27年はオザンファンたちとともにピューリスムを追求、1925年にはピューリスムの創始者の一人ル・コルビュジエのエスプリ・ヌーボー館の壁画を制作。また映画、写真に興味をもち、マン・レイたちの協力を得て映画『バレエ・メカニック』(1924)を制作、純粋に造形的な関心、とりわけ「オブジェ」への関心を示している。
第二次大戦中の1940~45年には、フランスを離れアメリカで制作、戦後フランスに帰国、サイクリスト、サーカス、ピクニックなど現代生活の明るさをテーマに平たい色面、太い有機的な曲線、明快な色彩の対照によって構成される大画面を数多く制作、そのなかにはニューヨークの国連本部大ホールの壁画(1952)がある。陶器、版画、モザイクなどにも多彩な活動を示し、パリ近郊のジフ・シュル・イベットに没。1960年彼が陶芸のアトリエを構えていた南仏ビオのにレジェ美術館(1967年、国家にコレクションとともに寄贈され、現在国立)が設立された。
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