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浅井忠

2011年01月22日 05時25分23秒 | 旅行

(1856-1907)

明治の洋画家。安政3年6月21日、江戸・木挽町(こびきちょう)の佐倉藩邸内に生まれる。7歳のとき父を失い家督を継ぎ佐倉に帰る。1872年(明治5)ふたたび上京、1875年国沢新九郎の彰技堂で西洋画の初歩を学ぶ。翌年工部美術学校が開設されるや、来任したイタリアの画家フォンタネージについて本格的な西洋画の指導を受けた。その師が病のため帰国すると、後任の教師を不満とし、同窓の小山正太郎、松岡寿(ひさし)らと連袂(れんべい)退学したことは、いかに彼がフォンタネージの画風と人格に傾倒していたかがわかる。1889年わが国最初の洋画美術団体、明治美術会を同志と創立、その展覧会に『春畝(しゅんぼ)』 『収穫』などを発表。1894年には日清(にっしん)戦争に従軍。翌年京都における第4回内国勧業博覧会に出品して妙技ニ等賞を受けた『旅順戦後の捜索図』は、このとき題材を得たものである。

 

1896年東京美術学校に西洋画家が新設され、フランスから帰国黒田清輝(せいき)が教授に迎えられたが、1898年には浅井が明治美術会を代表して教授に推された。1900年(明治33)文部省からフランス留学を命ぜられ渡欧。このときパリ郊外のグレーで制作した風景画(とくに水彩画)は有名。1902年に帰国してからは京都に移り、新設の京都高等工芸学校(現京都工芸繊維大学)教授に任ぜられた。校務のかたわら聖護院(しょうごいん)洋画研究所(1903)および関西美術院(1906)を創立し、青年たちの美術指導にあたり、その膝下(しっか)から安井曽太郎(そうたろう)、梅原龍三郎(りゅうざぶろう)、津田青楓(せいふう)など多くの逸材が輩出した。画風は細やかな自然観照を基調とし、いたずらに西欧の流行を追うことなく、日本人の感覚を生かした洋画の制作に力を尽くした。黙語、木魚と号し、正岡子規、夏目漱石(そうせき)ら文人たちとも親交があった。明治40年12月16日没。墓は京都,金地院(こんちん)にある。


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