ここからNHKの予算が尽きるか、大坂方の戦力が尽きるかの闘いw
— はなたろう (@hana_taro2014) 2016年11月6日 - 20:43
#真田丸 pic.twitter.com/gaK9ccRrcf
#真田丸 #丸絵
— こんでん (@hiroju55) 2016年11月6日 - 20:07
ずっと昔
「なんで、真田幸村は南が主戦場になると分かったんだろう…?」
今、真田丸を見ながら
「やっぱり攻めるなら南からだろうな…というか、弱点は南しかない…(上町台地すげぇ〜)」 pic.twitter.com/04Nxy0xSlw
昨日の #ブラタモリ の大阪で上町台地の話をやってたなぁ。そして次回は『真田丸スペシャル』きっと面白い!! RT #NHK #真田丸
— TomokaAmari (@TomokaAmari) 2016年11月6日 - 21:08
こういうメインテーマの使い方、めっっっっっっっ…ちゃ大好きなんです…!!!!!!! #真田丸 #丸絵
— 高枝景水@冬コミ12/30金)西ほ10b (@namazudou) 2016年11月6日 - 21:07
粟肌がとまりません!!! pic.twitter.com/W19BkqMUCr
デーンデーンデーンデーンドンドン #真田丸 pic.twitter.com/kGMuq0MvHD
— キヨソネ 或いは KYは静かに眠りたい (@kysn) 2016年11月6日 - 21:02
この場合『シン・ゴジラ』だよね?『エヴァ』だと徳川が使徒になるから、バテレン様が戦えへんやんw RT
— TomokaAmari (@TomokaAmari) 2016年11月6日 - 21:12
この2人がどうしても、昭和不良にしかみえなくて。一緒にサボろうぜ〜と声をかけてきてくれる仲間意識高い不良。学ラン違和感なかった。
— ささ。 (@puanda1122) 2016年11月6日 - 21:00
#真田丸 #丸絵 pic.twitter.com/e9nARpnoPo
今回の #真田丸 の個人的名シーンは、信繁「我々は戦を知っている。相手は知らぬものばかりだ」の後に出てくる家康。信繁の前に立ちふさがるのは、両陣営あわせて最も年を経て、最も戦の経験をつみ、「違う!こう身を守りながら攻めるのじゃ!」と最も身を守りながらの戦いを知り尽くしている男だ
— まやや&充実 (@mayaya_jujitsu) 2016年11月6日 - 21:09
第1話で船出した真田丸がついに出城の真田丸に着いた #真田丸 pic.twitter.com/L2RgVtS2X4
— 久世番子 (@bankolan) 2016年11月6日 - 20:40
真田丸の大きさはインテックス大阪とほぼ同じ。つめていたのは六千といわれる、イベントで人がたくさんいると真田丸感を味わえるはず #真田丸
— ごえん (@hisagonohi) 2016年11月6日 - 20:08
この表現は個人的に物凄く分かるwwwなお、関ヶ原は人数的にコミケのレベルらしいw RT
— TomokaAmari (@TomokaAmari) 2016年11月6日 - 21:20
誰かの創作の役に立つかもしれない話
— とびらの@「鮫島くんのおっぱい」作者 (@tobiranoizumi) 2016年11月5日 - 18:22
~身長147㎝の世界~
175以上のひとの頭に触れない
何に座っても常に足がブラブラする
立ち食い店は前かがみにならない
つり革には第一関節しかかからない
自車の尻扉を全部上げると、自力では 二 度 と 戻 せ な い ←通行人さんありがとう
大河ドラマ「真田丸」の復元考証のもとになった出城としての真田丸の研究過程を、NHK「歴史秘話ヒストリア」のチーフディレクター伊藤敏司さんとともに、掘り下げて論じていきます! twitter.com/sanada_gaho/st…
— 千田嘉博_奈良大学 (@yoshi_nara) 2016年11月6日 - 21:32
真田丸のところに後藤又兵衛が築城を計画していて・・・という話は軍記に出てくるものです。まあ、実際には大坂城の周囲には砦が複数作られており(木津川口砦とか)、真田丸もそのひとつで、当初からの計画を信繁が仕上げたという形だと思うのですが。結構入城からの日数がないんですよね。
— 丸島和洋 (@kazumaru_cf) 2016年11月6日 - 21:37
なお、「真田丸」という名前は、当初からついていたものではありませんでした(当初の呼び名は不明です)。後藤又兵衛遺臣の回想録『長沢聞書』によると、信繁と長宗我部盛親が入ったが、真田の活躍があまりに派手であったため、長宗我部の存在は忘れられてしまった(号泣)と。
— 丸島和洋 (@kazumaru_cf) 2016年11月6日 - 21:38
実際、「真田丸の戦い」における長宗我部隊の動きをみると、真田丸に入っていた可能性はかなり高いです。なお、じゃあいつから、誰が「真田丸」と呼んだのかというと、徳川方のようです。夏の陣の時には、真田丸跡地が「真田丸」という地名になって登場してきます。
— 丸島和洋 (@kazumaru_cf) 2016年11月6日 - 21:40
こういう「一番派手な者が手柄を総取り」的に伝承されるのは、よくありそうな話…(盗られた方には気の毒だけど) RT
— TomokaAmari (@TomokaAmari) 2016年11月6日 - 22:19
仕寄。「しよせ」とも、「しより」とも読みます。鉄砲よけの竹束・楯から、土塁・塹壕までを含んだ攻城器具・設備の総称です。すこしずつ土塁・塹壕を作って進んでいくわけです。
— 丸島和洋 (@kazumaru_cf) 2016年11月6日 - 21:45
仕寄せはあまり合戦図屏風にも描かれないのですが、今回戦国軍事考証として西股先生に入っていただいたので、映像化ができました(完全再現はちょっと無理なのですが)。大河でやったことはあるのかな。
— 丸島和洋 (@kazumaru_cf) 2016年11月6日 - 21:46
で、家康の仕寄せ講座。これは『翁物語』に出てくるシーンのアレンジです。徳川方は大名どころか家老クラスも初陣の家が結構あり、仕寄せの構築が遅々として進みませんでした。それで怒った家康が、若い大名を集めて仕寄せの作り方を教えさせた(自分でやったわけではないですが)という話。
— 丸島和洋 (@kazumaru_cf) 2016年11月6日 - 21:48
『翁物語』の作者は、小早川能久という甲州流軍学者。能久の父は小早川秀包、祖父は毛利元就です。1652年の奥書が入った写本があるので、成立はそれ以前。小早川能久は小幡景憲の弟子で、小幡景憲はこの時スパイとして大坂城内にいました。なので、聞いていてもおかしくないかな。
— 丸島和洋 (@kazumaru_cf) 2016年11月6日 - 21:51
それによると、仕寄せ講座をやっていたら、井伊直孝が熱心に聞いていて、家康が「お前のところには山県昌景(武田の勇将)の部下を配下につけているだろうが、そいつから聞け!何でここにくる必要があるんだ」と激怒したということ。
— 丸島和洋 (@kazumaru_cf) 2016年11月6日 - 21:53
徳川の『仕寄せ』のやり方は武田のやり方を踏襲してるはずだから「なぜ、お前の部隊にいる山県の旧家臣達から聞かない?!(家臣と話をしろ!!)」という家康の苛立ちは、理屈は合ってる。先代の井伊直政は有能だけど家臣からは『人斬り兵部』と呼ばれ嫌われてるからなぁ。 RT
— TomokaAmari (@TomokaAmari) 2016年11月6日 - 22:29
#真田丸 信繁に入れ込み過ぎて『大坂方、初勝利』を願うツイートを時々見かけるけど。「いや、それだけはダメだろ!!」と思う。何故なら、真田幸村とか源義経とかは「優れた才能を持ち、活躍しながら、不幸な最期を遂げた」同情がかっこよさを上乗せしてる人だから。
— TomokaAmari (@TomokaAmari) 2016年11月6日 - 23:38