娘は半年前くらいになぜなぜ期だったのですが、
その弊害がこんなところにまで…!という面白いエピソードがあったので記録(いつの話だ
娘はまだ字が読めないため絵本の内容をそっくり覚えているのですが、一人遊びの最中に一人で独り言のように話しているときがよくあります
その日は赤ずきんでした。
「おばあさんのお目々はどうして大きいの?」
「お前をよく見るためさ」
「おばあさんのお口はどうして大きいの?」
「お前を食べるためさ」
「どうして?」
「食べたいからさ」
「どうして?」
「食べるためさ」
「ふーん…。どうして?」
エンドレス、という
なぜなぜ期は、狼にも容赦ないのであった
結局、このあとお腹を割かれてジャガイモ詰められてチクチク縫われて池に落ちる狼についてひたすら疑問だらけだった娘。一行ごとに根気よくどうしてどうしてを繰り返し、最終的に「もう道草したり知らない人について行ったりしないわ」と赤ずきんがまとめて終わったラストにはもう怒涛のどうしてどうしてでした。
そうだよね…それだけ最初から最後まで狼にピントを合わせた読み方してたら、最後まで狼主体…つまり「これに懲りて、もうかわいい赤ずきんや優しいおばあさんを食べたりしないよトホホ」で終わって欲しいよね…
痛い目みてるの狼だもんね…狼側の教訓の方が染みるよね…
と、それが正しいかは別としてなんだか娘の疑問に同調してしまいました。
それにしても、
名作絵本と言われる物にはきちんと教訓があるものですが、それをまだ読み取れない年齢の子どもに話の意図を伝えるのはとても難しい、と日々感じています。
本当なら私がきちんとお話の原作を調べてきちんと説明すべきなのかな、と考えた時期もありましたが、「え、それでいいの?」とか「えっ、なんで?」とか、そういう小さなふしぎが引っかかることにより強烈に物語を記憶するのかな、とも考え、結局、疑問は疑問でそのままにしています。
「この話の中ではこの終わり方で良いってことになってるけど、本当にこれで良いのかな。私の中の正義とはちがうな」
という、小さな違和感を娘の心に残してくれれば、それが絵本の持つ役目の全てなような気がする。
教育とは、どの絵本を読んで聞かせるかではなく、どんな違和感を感じる子になるか、だと思うので、なぜなぜ期が終わった後も娘の持つそういう疑問には一緒に首をひねるのが私の役割かな、なんて、そんな風に思います。
その弊害がこんなところにまで…!という面白いエピソードがあったので記録(いつの話だ
娘はまだ字が読めないため絵本の内容をそっくり覚えているのですが、一人遊びの最中に一人で独り言のように話しているときがよくあります
その日は赤ずきんでした。
「おばあさんのお目々はどうして大きいの?」
「お前をよく見るためさ」
「おばあさんのお口はどうして大きいの?」
「お前を食べるためさ」
「どうして?」
「食べたいからさ」
「どうして?」
「食べるためさ」
「ふーん…。どうして?」
エンドレス、という
なぜなぜ期は、狼にも容赦ないのであった
結局、このあとお腹を割かれてジャガイモ詰められてチクチク縫われて池に落ちる狼についてひたすら疑問だらけだった娘。一行ごとに根気よくどうしてどうしてを繰り返し、最終的に「もう道草したり知らない人について行ったりしないわ」と赤ずきんがまとめて終わったラストにはもう怒涛のどうしてどうしてでした。
そうだよね…それだけ最初から最後まで狼にピントを合わせた読み方してたら、最後まで狼主体…つまり「これに懲りて、もうかわいい赤ずきんや優しいおばあさんを食べたりしないよトホホ」で終わって欲しいよね…
痛い目みてるの狼だもんね…狼側の教訓の方が染みるよね…
と、それが正しいかは別としてなんだか娘の疑問に同調してしまいました。
それにしても、
名作絵本と言われる物にはきちんと教訓があるものですが、それをまだ読み取れない年齢の子どもに話の意図を伝えるのはとても難しい、と日々感じています。
本当なら私がきちんとお話の原作を調べてきちんと説明すべきなのかな、と考えた時期もありましたが、「え、それでいいの?」とか「えっ、なんで?」とか、そういう小さなふしぎが引っかかることにより強烈に物語を記憶するのかな、とも考え、結局、疑問は疑問でそのままにしています。
「この話の中ではこの終わり方で良いってことになってるけど、本当にこれで良いのかな。私の中の正義とはちがうな」
という、小さな違和感を娘の心に残してくれれば、それが絵本の持つ役目の全てなような気がする。
教育とは、どの絵本を読んで聞かせるかではなく、どんな違和感を感じる子になるか、だと思うので、なぜなぜ期が終わった後も娘の持つそういう疑問には一緒に首をひねるのが私の役割かな、なんて、そんな風に思います。