感じることも 考えることも “自分の世界”でのことで
単に 自分の反応を見ているにすぎないと思う
人のことを分かったように言ってても それは言っている本人の判断、解釈にすぎず、断定的に言う人ほど「世界が狭い人」なのかなって思うときがある(これも単にYワールドの中での解釈)
「あなたは〇〇な人ですね」と言われて それがとっても一面的だったり的外れだなって感じることもあるけど
それは言ってる本人の世界の中限定のYの姿にすぎないので 好きにYという人間を設定すればいいよ って思ってる
だから 的外れ~って思っても 強行に訂正しようとは思わないかな
逆に面白がるかも(笑)
意外なことで褒められたりすると Yワールドの中にそういう視点が追加されて Yの価値が上がったような気分になる時がある。 気分いいじゃ~ん(笑)
でも 褒めてくれた人の中のYがそうであっても Yワールドの中で「Yの実態はそうじゃないな」と判断してたり「Yのこういうところは褒めに値する」と設定されていなければ、自分で自分を無理に褒めることはしないかな。
他人を見て 〇〇な人だ と判断した瞬間に それは己の判断の仕方がそこに展開されているのを見ているにすぎない。自分の判断を脇に置いて判断はできない。己の世界の中限定のことなんだよね。
個々の人間は どこまでいっても 自分の世界を見ているだけなんだよね。
だから ほんとうの意味で真に「自分を客観視する」は この世ではできないと思うよ。
この世では 個々の人間は 個々の世界から出られないし 見ているものもすべて個々それぞれの己の世界なんだよねー。
まぁ こんなのが 私の人間ちゅーものの捉え方の大前提になっていて
「じゃあ 自身の世界に過ぎないなら 自分で変えていける?」って話に繋がるんだけど・・・・