弛まぬ空

酷く個人的かつ内面的な日記

朝の所要時間ー喫煙者でうつ病のアキレス腱

2018-01-17 14:18:38 | 思考
朝、目が覚めてから外に出かけるまでに最低で1時間、大抵は2時間もかかる。
天気が悪い日は外に出るのに抵抗が増して頓服薬が効くのを待つためそれ以上かかる日もある。

起きてからの光療法20分
ストレッチ5分
瞑想が10分

家事の分担の茶碗洗い10分
風呂洗い10分

髭剃り・洗顔・髪のセットで15分
着替えに5割

これだけでトータル1時間15分である。

喫煙者で、かつ、眠前の薬の効果が朝まで残っていると目が覚めるまでにかなり時間がかかる。コーヒー好きでもあるのでコーヒー4杯くらいで便意を催すまでタバコとコーヒーをセットで考えると、二時間はかかるということだ。

家事の分担がなくても1時間半はかかる。

成人男性の平均値は知らないがかかりすぎだ。
普通、少しゆっくりして1時間だと思う。

喫煙者は朝おはようタバコをする人がほとんどであると思うが、本数を減らしても多分1時間以上かかってしまうと思う。
早く起きれば問題ない思うのだが、それが出来ない。
光療法のタイマーもアラームも無意識的に止めて寝てしまうことがほとんどだ。

仕事とかバイトとか大学院とかもっとデイケアより強制力があるものだとすんなり起きられるかもしれないが、やはり、テキパキと動ける気はしない。

今はともかく勉強だが、やはり4月からの生活に不安が残るなあ。
春先は多分冬よりマだが、秋冬というのは1年で半分はある。

因みに、今日の朝はかなり辛かった。
いい加減、天気と気候変動の影響を受けるのは勘弁して欲しい。

個人宗教4ー否定

2018-01-13 18:03:50 | 思考
連続で個人宗教というテーマで書いたのだが、本当にそれは宗教であるのだろうか。
ただのアニミズム的なものの見方をしているだけではないか。

命題1
何にも始まりがある。
命題2
無から有は生まれない。
命題3
全ては因果か確率論で支配されている。

よって、全ては有から生まれ自分の与り知らぬものによって支配されている。
これは論理的だ。前提さえ間違っていなければ。

そして、確率論であろうと因果関係であろうと、始原の必要単一原因から生じたのなら、全てはそれの顕れであるのは当たり前。
森羅万象がそうで自分もまた、「この意識」だけを例外視しても、その顕れを共有している。

そうであるなら、自分を尊重することは森羅万象を尊重することに繋がる。
だが、mECTの前のように自分を呪うならば全てを呪うことになる。

そう。苦しみの渦中の中で、苦しみ自体を客観視することは難しい。

mECTの前後で自責的思考が有意に減少したが、それはどういうメカニズムであるのかが分からない。再発もしたわけで。
決定論・確率論・客観視の話をすると主体性がないと言われるし、(主体性という感覚自体が誤認な訳だが)、ここに何回か書いているようにmECT後に解離的な何かーPTSD的な症状が生じているのも確かだ。

昨夜も左手の甲の沁みる感覚ー全身麻酔の時のことを思い出して眠るのが
怖くなった。

だから、こういうものの見方自体、自発的に生み出されたものではないのだ。
というか、mECTの結末なら究極の人為によってもたらされた副産物ー意識のバグに過ぎない。

ならば、結局、全てがバグっているような気がしなくもない。

だが、狂気とは違う。狂気のさなかにある人間は自分を狂っていると疑わない。

個人宗教3ー儀式

2018-01-10 14:04:04 | 思考
さて、私の神は何も命じないが、神から引き出せるものとして、

何事・何者にも患わされることなかれ。

このことは言える。

でも、今こう考えていても、惑わされるのは必然。
ならば、今の心境を思い出せるアイコン・刻印・儀式等が必要だろう。

今・ここ、というマインドフルネスの中心概念には疑義がある。
というのも、知覚からの入力と感覚への出力には厳密に言うとタイムラグがあるから。

別に偶像ではないが、偶像で思い出すことを禁じているわけではないので何か刻印やアイコンが必要だ。でも、ちょうど良いものが見当たらない。

となると、実利も兼ねたマインドフルネス瞑想が儀式として適当だろう。

究極のカルト宗教である個人宗教が通俗的な儀式を行うというのは何だかと思うが、それすら禁じていないので可とする。

つまり、内なるもの以外は、

anything goes

の精神。
全て他律的だといっても、敢えて苦痛を感じる必要はないし、苦痛を緩和する術があるにこしたことはない。

ということで、明日から何より優先して瞑想の時間を設けよう。
繰り返すが、それは命じられていないのだが・・

個人宗教2ー驚嘆

2018-01-10 13:33:38 | 思考
そう考えていくと、

世界とはエネルギーの発露である。

その命題が成り立つ。相対性理論を持ち出すまでもなく。
無から有は生まれないという前提に立つと、無神論というのはあり得ない。
そもそも無など知覚出来ない。
出来るのは無を知覚している(と錯覚している)自分を知覚することだけ。
だから、仏教というのも違う。マインドフルネスを否定するものではないが・・

無論、キリスト教やイスラム教、諸々全ての宗教が私にとっては欺瞞である。
ただ、私の宗教は何も攻撃しない。
現存する全ての受容。これは導き出せるからだ。

結局、今までの思索とメタ認知を突き詰めたものなのだと思う。
全てを究極的に客観視した末に、全て独我論的世界に取り込み主観的にみる。

先ほど、世界は驚嘆に満ちている。
と書いた。
ならば、自殺衝動そのものは否定しなくても、生き続けたらそれなりのものを世界は提供してくれる・・かもしれない。

まあ、ただ残る問題は私の消滅ー死のことだ。
私の神は死後の世間なんてものを持ち出さないのだから。

個人宗教

2018-01-10 13:15:03 | 思考
色々切羽詰まるなか、ふとした瞬間に神というものを感じた。

こう書くと怪しげだが、私の神は私だけにとってのもので、何らの規範も与えない。人格神ではない。
なので、権威も価値も意味すら与えない。
他人に説くものでもない、内なる神。信仰するというものでもない。

ただその時その時に見出し感じるもの。

というのも、私にとっての神は

無限遡及したあとの究極の単一必要原因

だからだ。

ほとんどは決定論に基づくものだが、それが量子力学の確率論でもいい。
確率論は自由意志を擁護しない。
全てのことがーこの私さえも私の与り知らぬものによって動かされている。
それは独我論を唱えようと同じこと。

こう考えていると少し楽になる。
なるようにしかならない。
そのために足掻こうが、それもそれ。

でも、少し考え方が変わったかもしれない。

世界はー私の世界はー私が知覚する森羅万象は等しく無価値であると同時に等しく価値があるものなのかもしれない。
万物への驚嘆そこにはある。

たとえまた自殺衝動に突き動かされることがあっても、それを否定するものでもない。
私の神は生すら命じない。
だから、自殺衝動すら尊重するべきなのかもしれない。
その時に足掻こうが、屈しようが関係ない。

ただこの穏やかな境地が続けばいいな。

I accept everything.