思いつくまま、気の向くままの連載記事。
第3回『関東編その2』です。
≪選抜出場校 思い出編3≫
関東代表 東海大甲府(山梨) 5度目(25年ぶり)
夏13度出場 甲子園通算28勝17敗
東海大甲府というと、完全に2つの時代に分かれますね。チーム創成期から平成初頭にかけての名将『大八木監督時代』と、復活してまた甲子園の常連になった現在の『村中監督時代』のことです。両監督とも東海大相模出身、原貢監督の薫陶を受け、原貢野球の後継者ですね。地理的に近いこともありますが、『元祖』の東海大相模に次ぎ、この東海大甲府は東海大付属にとっても特別な学校に位置付けられているのでしょうね。さて、ワタシが東海大甲府と言ってもっとも思い浮かぶのは、やはり大八木監督時代の82年~90年の戦いでしょうね。81年夏に初出場を飾った東海大甲府は、82年夏に強烈な印象を残します。それまでややひ弱だと思われていた山梨代表としては、まさに異質の存在。ばんばんホームランを叩きこむ強力な打線の印象は鮮烈で、3回戦であの早実の荒木と対戦した試合でも、荒木をほとんど攻略するほどの鋭い振りを見せてくれました。85年には強力打線を引っ提げて4強へ。このころから東海大甲府はチームとしてのピークを迎え、関東では最も力強いチームでした。そして大八木監督の采配の凄さ。一歩も二歩も他校の先を行く、先進の戦いぶりという感じで、『近々に全国制覇だろうな』と思わせる充実ぶりでしたね。87年春の4強進出時は、春夏連覇を達成するPLを土俵際まで追いつめる戦いぶり、88年春も選抜で8強に進出すると、90年にはまたも4強へ。優勝した近大付属に延長で敗れましたが、この時が最も優勝に近づいたチームでした。最近ではセンバツ高校野球の試合の合間に毎年『選抜好試合』のハイライト映像として出ますから、何度も目にしたことがあると思います。あの試合をしのげば、山梨勢初の全国制覇もなったのではないかと、ワタシは今でも思っています。この9年間の大八木監督のチーム作り、すごいものでした。なぜ東海大甲府を去ったのか分かりませんが、その後の90年代、東海大甲府はずっと新興勢力である山梨学院大附や日本航空などの後塵を拝して、なかなか甲子園までコマを進められませんでしたね。最近は選手の素材で勝負する村中監督の下、また黄金時代を構築すべくチームを作り、ここ数年間は甲子園でも実績を残しつつあります。しかし、往年の東海大甲府の【(相手にとって)厳しい野球】を知っているファンとしては、『まだまだだなあ』と思ってしまうのも確かです。それにしても、大八木時代の東海大甲府、本当に強かったです。。。
関東代表 花咲徳栄(埼玉) 4度目(3年ぶり)
夏3度出場 甲子園通算 6勝6敗
花咲徳栄は、今でこそ埼玉を代表するチームとなっていますが、その登場からはまだわずか15年、新世紀に登場したチームです。初登場は01年夏。しかしその2年ほど前に、突如春の関東大会で優勝を飾り、初めてのその名前を目にすることになりました。スカイブルーのさわやかなユニフォームを身にまとい、激戦の埼玉の高校野球界にさっそうと登場したこのチームは、01年にも春の関東大会を制覇。そしてその夏、初めての甲子園の土を踏むことになります。その初陣の大舞台初戦、名門宇部商に対して花咲徳栄は、打って投げて、伸び伸びと暴れまわり12-0と圧倒。鮮烈なデビューを飾りました。そして最も輝いたのは、03年春。好投手の福本を擁してセンバツ初出場の花咲徳栄は、存分にチームの力を発揮して8強に進出。そして『伝説の名勝負』である東洋大姫路戦を迎えました。東洋大姫路にも注目の好投手・アンがいて、福本―アンの投げ合いは甲子園のファンを魅了しました。延長15回引き分け再試合の末、その再試合でも延長にもつれ込むという大激戦。最後の最後、福本のワイルドピッチで試合が決まるという悲劇の終幕ということも相まって、この試合はファンの心に深く刻み込まれました。もとより埼玉出身のワタシ。この試合はワタシの中の、『埼玉勢名勝負数え歌』の一つに刻み込まれた戦いとなりました。花咲徳栄を23年にわたり指導する岩井監督の下、いよいよこの辺りから、チームもピークを迎えてくるのではと思っています。01年~03年のセンセーショナルな”甲子園デビュー”のころに感じた鮮烈な印象、最近はやや薄れつつあります。ライバルである浦和学院に押され、後塵を拝しているという感もなくはないイメージなので、昨夏の甲子園8強の余勢をかってこのセンバツでも上位進出を果たし、名実ともに『徳栄時代』を築くきっかけにしてほしいと考えています。
東京代表 関東一 6度目(2年ぶり)
夏6度出場 甲子園通算 19勝11敗 準優勝1回
東東京のチームとして、帝京の厚い壁を破り、最近では完全に『地区の顔』という地位を手にしている強豪。関東一も東海大甲府と同じようなチームの変遷をたどっています。甲子園デビューを飾った85年~87年までの『小倉監督時代』と、長い雌伏の時を経て復活を遂げた現在の『米沢監督時代』の2つの時期が、チームを説明するうえで欠かせません。現在日大三で二度の全国制覇を成し遂げた小倉監督の若き日、彼は関東一で『若き闘将』として名をはせました。とにかくベンチでの気合満点の様子と、関東一の”やんちゃな野球”は見事にマッチして、『下町の暴れん坊』として『帝京一強』だった東京の高校野球勢力図に風穴をあけました。このころのチームで、何と言ってもワタシの記憶に鮮烈に残っているのは、85年の東東京大会決勝。その年、センバツで帝京が2度目の準優勝に輝き、夏の東東京大会でも『絶対的な本命』にあげられていました。しかしその頃、何度も上位の対戦で帝京の厚い壁に跳ね返されていた関東一の”打倒帝京”にかける気合いは凄かった。前半リードされている試合をひっくり返して、あとは打つは打つはのお祭り野球がさく裂した勝利に、ベンチは一体となって大盛り上がりでした。ランナーがホームに帰ってくるたびに、帝京ベンチに向かってそのあふれる気迫を表すようにガッツポーズを繰り返すこのやんちゃ軍団に、下町のファンは大いに盛り上がりました。そしてその勢いは甲子園に行っても止まらず、初戦から毎試合、初出場とは思えないようなすばらしいはじけっぷりを見せて8強まで進出しました。前年のセンバツでやはり初出場の岩倉が、ノリノリのイケイケ野球でPLをも破り『初出場初優勝』の快挙を成し遂げたのですが、関東一の進撃を見てワタシは、『岩倉の進撃再び』の感を強くしたものでした。今につながる小倉監督のDNAを強く感じる、見ていて本当に楽しいチームでした。そしてその強烈な印象が冷めやらぬ87年選抜。今度は強力なバッテリーを中心にスルスルと勝ち上がり、何と決勝まで進出。関東一の名前は高校野球ファンの隅々まで浸透していきました。しかしその後小倉監督がチームを去り、チームは完全に低迷期に突入しました。ときおり思い出したように甲子園まで進出するもののほとんど存在感なく去っていき、なかば『忘れ去られたチーム』となっていました。しかし00年に現在の米沢監督が就任して、じっくりとチーム作りを進めて、ようやくチームは再び軌道に乗ってきました。これまでの『イケイケ野球』から完全にチームカラーを変革して、08年に監督初めての甲子園に進出した後、甲子園に来るたび新しい顔を見せてくれて、びっくり箱のような楽しさを再びファンに感じさせてくれるチームになってきました。その集大成は昨夏。オコエを中心に、弱点だった投手陣も何とか仕上げ、夏の甲子園で4強まで進出しました。米沢監督も、40代を迎えてすっかり”名将の風格”を兼ね備えてきました。これからが本当に楽しみなチームです。今年のチームは、昨年までの数年間と比べると明らかにチームの総合力は劣ると思いますが、それでも『何とか戦えるチームにする』のが米沢流。米沢采配を軸に見ると、関東一というチームは、実に実に、興味深いチームです。
(つづく)