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16年目突入。ビッグイベントに心躍らせながら、草の根のスポーツの面白さにも目覚めている今日この頃です。

最も印象に残った球児   42.徳島

2012年09月18日 | 高校野球名勝負

◇もっとも印象に残った球児

42.徳島



水野 雄仁   投手・外野手    池田高校   1982年 夏  1983年 春夏    
江上 光治   内野手       池田高校   1982年 夏  1983年 春夏    



甲子園での戦績

82年 夏   1回戦     〇  5-2     静岡(静岡)
        2回戦     〇   4-3    日大二(西東京)
        3回戦     〇   5-3    都城(宮崎)
        準々決勝   〇  14-2    早稲田実(東東京)
        準決勝    〇   4-3    東洋大姫路(兵庫)
        決勝      〇  12-2    広島商(広島)
83年春   1回戦    〇  11-0    帝京(東東京)
        2回戦    〇  10-1    岐阜第一(岐阜)
        準々決勝  〇   8-0    大社(島根)
        準決勝    〇   2-1    明徳(高知)
        決勝     〇   3-0    横浜商(神奈川)
    夏   1回戦    〇    8-1    太田工(群馬)      
        2回戦    〇   12-0    高鍋(宮崎)
        3回戦    〇   7-3     広島商(広島)
        準々決勝  〇   3-1     中京(愛知)
        準決勝    ●   0-7     PL学園(大阪)



徳島と言えば、
池田しかありません。

あの風貌の蔦監督の姿、
今でもはっきりと思い浮かべることが出来ます。

その蔦監督が引退してからというもの、
池田もめっきりと弱くなってしまいましたが、
昭和50年代に花開いた池田の【チームとして旬の10年間】は本当に強いチームでした。

最も印象に残った人物は蔦監督しかありませんが、
選手ということで言うならば、
やはり【最強・池田】の江上・水野のコンビということになるでしょうか。

まあ、
今回紹介するのは江上・水野というよりも、
池田高校の歩みと言った方がいいかもしれませんね。


池田が悲願の甲子園初出場をしたのが昭和46年夏。
その時は2回戦で敗れて話題にもなりませんでしたが、
その次に出てきたときは、全国の話題をさらいました。

そのチームが昭和49年の【イレブン池田】。
何がイレブンかって?!
そう、部員がわずか11人しかいなかったのです。

その理由は、
練習があまりにも厳しすぎて一人、また一人と抜けて行ったというもの。

当然といえば当然なのですが、
その厳しい練習に耐えぬいて残った11人の選手たちは、
そりゃあたくましかった。

まだまだ金属バット元年の時代。
選手の約半数は、
木のバットを使っていました。

池田は選手が少なかったこともあり、
あの『やまびこ打線』でガンガン打つイメージとは対極の、
『守って守って守り勝つ。攻めては機動力と小技』のいわゆる【弱者の戦法】を駆使したチームでした。

あの春、
イレブン池田は本当に世間の注目を一身に集め、
蔦監督のことも、マスコミが『なんだか率いている人物も面白そうな人だ』ということで、
連日取り上げられるという具合になりました。
そして一気に、池田高校と蔦監督の名前は【全国区】に祭り上げられました。

決勝で敗れて優勝できなかったところも、
日本の古くからある【判官びいき】という心情にぴったりと合ったんでしょうなあ、
今40年近くが経過してみると、
ほとんどの人がその年の優勝チームは記憶していなくとも、
イレブン池田のことは記憶していますね。
ちなみに池田を決勝で倒して優勝したのは、報徳学園でした。


さてその後池田は、
強豪への道をどんどんと進み始めました。

翌昭和51年のセンバツに連続出場。
そして54年には、春のセンバツに3年ぶりの出場。
準々決勝で、東洋大姫路と高校野球史に残る『雨中の激闘』を戦いました。
そしてその夏には2回目の出場で、甲子園準優勝。

『強豪・池田』という名を確固たるものにしました。

そしてその興奮が冷めやらぬ昭和55年の4月。
池田の歴史を変え得るような剛腕が入学してきます。
彼の名は畠山準。
そう、昭和57年の優勝投手です。

蔦監督をして、
『池田全国制覇への最終兵器。そして、奴で最低3回は甲子園へ』
と言わしめたほどの期待された剛腕でした。

最終兵器という、そのココロは、
蔦監督自身が昭和57年で還暦を迎えるからでした。
高校教員として迎える最後の大会が畠山が3年の時の大会。
だからこその執念、あったんでしょうね。
遅咲きの人でした。
*実際には定年後にも池田高校の講師として、平成の頭まで采配を振るい続けることになります。

その『監督生命をかけた』畠山、
なかなか甲子園の土を踏むことが出来ません。

1年生だった昭和55年は、
池田は前年の甲子園準優勝チームとして臨むものの県大会敗退。
昭和56年はセンバツを逃すとともに夏も宿敵・徳島商の軍門に下りまた涙を飲みました。

最後の望みをかけて臨む昭和57年(度)。
秋は明徳に四国大会で完封負け。
結局畠山は一度も甲子園の土を踏むことなく、
『最後の夏』を残すのみとなりました。

その頃の蔦監督の談話。
『どうしても上手くいかん』

かなり焦りが感じられました。

世は早稲田実の時代。

畠山と同級生の早稲田実・荒木大輔は、
この春まで4季連続の甲子園出場。

この年のスターは荒木大輔で、
畠山はまだ『隠れた逸材』という評価どまりでした。

しかしその積りに積もった思いが、
大爆発します。

池田はこの年の夏、
初めて畠山と打線がかみ合い徳島大会を3年ぶりに制覇。
甲子園に戻ってくることが出来ました。

大会前の評判では、
早稲田実も強いが、
剛腕畠山に強力打線が絡む池田も相当強いというものでした。

これに選抜ベスト4の中京が3強。

池田の評価は、
かなり高かったといえます。

しかし肝心の畠山が、
なんとなく甲子園に入ってからパッとしない状況が続きます。

1回戦から、
5-2,4-3,5-3と、
3試合で8失点。

『確かに球は速いが、粗いし安定していないね』
という評価がされるほど、
イマイチの状態が続きました。

打線は9番の山口が2あ試合連続本塁打を飛ばすなど、
ここという時に長打が出るものの、
あの『やまびこ打線大爆発』と呼ばれるような状況ではありませんでした。

そして対戦した早稲田実。
準々決勝、雨中の決戦でした。

その【絶対に倒してやりたい相手】との決戦で輝いたのが、
その後1年間高校野球界に君臨する、
江上・水野の強打のコンビでした。

初回1死を簡単にとられてからエラーでランナーを出すと、
打席には江上。

左バッターボックスでその屈強そうな体から放たれた打球は、
荒木が今まで経験したこともないような弾道であっという間にライトスタンドへ。
先制の2ラン。

この一発が、
この試合を決めたといってもいいでしょう。

その後は荒木の投げる速球、カーブに池田打線が1番から9番まで見事にタイミングを合わせ、
フルスイングした打球は次々と鋭い打球になって早実の守備陣をあざ笑うように抜けていきました。

極めつけは水野。

5-2と追い上げられた直後、
荒木の速球を見事にとらえるとバックスクリーンに、
試合を決定づける2ラン。

そして波に乗り、
今度は2番手の石井(元西武)から、
2打席連続弾をバックスクリーンへ。
満塁ホームランというおまけも付きました。

池田はこの江上、水野の3発で早実・荒木の全国制覇の野望を木端微塵に打ち砕き、
この試合で『攻めだるま』と言われた蔦監督の作り上げた『やまびこ打線』は【伝説】になりました。


そして決勝では、
『細かい高校野球戦術』
を駆使する広島商に対して、
これまた初回から木端微塵に打ち砕き、
”還暦監督”の蔦監督が、
ついに優勝監督になりました。

大会が終わってもその興奮は冷めやらず、
蔦監督関連の本が何冊も出版される事態になるなど、
そのフィーバーはとどまるところを知りませんでした。

そして迎えた秋の大会。

江上・水野の両輪が新チームに残る池田は、
『そこそこ強いだろう』
と見られていましたが、
新チームの快進撃を見るにつけ、世間の目はさらにそのキラキラ度を増していきました。
『旧チームよりも、さらに強いじゃん!!』


水野の剛腕は、
実は畠山よりもずっといい。
剛腕なだけじゃなくて、
コントロールも抜群じゃん。

江上・水野に吉田を加えたクリーンアップの破壊力は、
旧チームの比じゃないじゃん。

しかも今回のチーム、
守れたり走れたり、総合力も高いじゃん。


そんな新チームが臨んだ春のセンバツ。
まさに池田の強さは断トツ。
苦戦と言えば準決勝の明徳戦だけ。

その明徳戦でも、
結局は8回の逆転劇で勝利。

決勝のY校戦は、
まさに池田野球全開の圧勝劇。

まさに軽々と、
夏春連覇を達成しました。


そうなると世間の期待は、
前人未到の3季連続制覇。

昔圧倒的に強かった法政二がその偉業に片手をかけたものの、
結局3季目の準決勝で敗れ去り偉業達成はならず。

この強い池田こそが、
その偉業を達成してくれるはず!

ということで、
春から夏にかけて池田高校は、
さらに拍車をかけたフィーバーにさらされることとなります。

常にテレビカメラが彼らの一挙手一投足を追い、
スポーツニュースでは彼らの練習試合の様子が、
プロ野球と同列で流されたりしました。

異常な盛り上がり
の3か月ほどでしたね。

彼らの強さの秘密とか普段の生活を追ったドキュメンタリー番組、
ワタシが見ただけでも3つほどがありました。
まあ、今考えても……異常な状態でしたね。

ドキュメンタリーで語られた常套句。
『こんな山間の静かな場所の学校が、あんな偉業を成し遂げるとは・・・・・』
といったもの。

確かに池田のある徳島県の山間に行ってみれば、
そこがいかに都会と違うかということは分かりますが、
今考えてみると、
彼らが『すごい田舎のチーム』であったことが、
何事も『都会中心主義』の社会のアンチテーゼ的に取り上げられていたこと、
気づいてしまいますがね。


いずれにしても池田はセンバツから選手権までにかけて、
今まで考えられもしなかったような状況におかれ続けたということだけは、
言えるでしょう。

そんな中でチーム力を保ち、
底上げなんかできるはずないんですよね、考えて見りゃ。
蔦監督にとっては、
これこそはまさに『予期せぬ事態』だったんでしょう。

今までの生活が一変してヒーローとして扱われ、
平静さを失う選手が出てきても、
致し方ないことだと思います。

肝心の野球は、
招待試合に追われて【調整】【調整】と言った日々が続きました。

そんな中池田は、
『世間の期待通り』に甲子園出場を勝ち取り、
『世間の期待通り』に甲子園でも勝ち進んでいきました。

取材規制も行われず、
甲子園の宿舎の各選手の部屋までべったり取材陣が張り付く中、
彼らが勝ち進んでいったのは、
本当に奇跡的なことでした。

逆に言えば、
それほど力の差は顕著だったと思います。

しかし、
勝ち進んでいくほどに『いつか彼らだってやられるんじゃないだろうか』という、
漠とした不安というか期待というか、
そういった空気も熟成されていったことも確かでした。

池田が甲子園でいつもの通り素晴らしい打球を飛ばすと『お~』という歓声が上がったのですが、
逆に対戦相手がヒットを打つとそれ以上の『お~』という歓声が、
判官びいきの観客から上がっていたことも確かでした。

一言でいうと【微妙な空気】が池田の試合を支配していたこと、
よく覚えています。

江上と水野は、
そんな中よくチームを引っ張っていたと思います。

江上は前年ほどの破壊力ある打撃を見せることはありませんでしたが、
池田の『スポークスマン』として、
主将としてよくチームをまとめ上げていました。

水野は連続安打の記録を作るようなペースでヒットを量産し続けていました。
前年度の雪辱に燃える広島商との対戦では、
相手を突き放すホームランをたたき込みました。

しかしこの試合で水野は左側頭部にデッドボールを受けてしまいます。
一度プレーを離れて治療のため奥に引っ込みますが、
しばらくして元気に(?)出てきてプレーに戻っていきますが、
なんとなく『いつもの水野』は取り戻せないままこの試合を終えます。


そして次の試合は、まさに宿敵ともいうべき中京との対戦となりました。

相手のエースは、野中徹博。

この試合は愛知県の稿でも書きましたので割愛しますが、
『高校野球史に残る』
レベルの高い、息のつまるような試合でした。

そしてこの【優勝候補同士の対戦】で勝利を収めて安心したところに当たったのが、
桑田・清原を擁するPL学園でした。

そしてこの試合が終わる前と後で、
【高校野球の風景】
が一変、
【最強・池田】の時代は終わりをつげ、
KKを中心とした【史上最強・PL学園】の時代がやってくるのです。

そのターニングポイントとなった一戦でした。

この試合、
水野は広商戦から続く『どこかいつもの水野ではない』状況のままマウンドに上がり、
桑田を中心に3本のホームランを浴び7失点。
初めての出来事に顔色を失っていましたが、
それでも4番の清原に対しては意地を見せて4打席4三振に切って取りました。

江上は試合終了後に感想を求められ、
『今すぐPLと試合をやりたい』
と答えていました。

【高校野球史上最強】と恐れられた池田高校の戦いが、
ここに終わりを告げました。


蔦監督は試合後のミーティングで、
悔しさをグッとこらえながら、報道陣にいつもと変わらず応えてくれました。
『彼らの今後の人生のためには、この大会は勝たない方がよかったと思う。』
と強がりではなく言い放ちました。

このコメントに、
彼の教育者としての矜持が、
強く感じられました。


そして宿舎のチームミーティングでは、
『お前らが浮かれとるから、こんなことになったんじゃ。お前らのせいじゃ!』
とナインに怒りました。

今の時代にこんなことを言うと、
『教育者として失格』
のようなこと、書かれたり言われたりしたんでしょうなあ。

しかしワタシは、
この言葉に蔦さんの本当の愛情、
本当に人を育てるとはどういうことかということを、
強く感じることが出来ました。

一連の【負けた後】の蔦監督を見て、
蔦さんという人間が、
ますます好きになりました。

ちなみにイレブン池田の時代から昭和61年の選抜優勝の時までの池田の甲子園での成績、
知ってます?

32勝6敗です。

わずか10年ぐらいの間で、
優勝3度、準優勝2度、4強2度・・・・・
勝率は.842という、
驚異の数字です。

池田高校の【旬の時代】は、
高校野球が一番人気のあった時代でもありました。
今振り返っても、すごすぎますね。


そういえば余談ですが、
ワタシはこの年の池田高校の卒業生、
たくさん知っています。

彼らは異口同音に、言います。
『蔦先生は、本当に面白くて、やさしい先生だった。』と。

本当の教育者とは、
こういう人を言うんだなあ、
なんて、ワタシの中の蔦監督像、その時のまま止まっています。

『池田最強伝説』

今になっては覚えている人も少なくなりましたが、
ワタシの中には鮮やかに、
しかも太~く残っています。

すっかり弱くなって甲子園に出てくることもままならない現在の池田高校ですが、
またあの『♪ しののめの~ 上野が丘に~』で始まる校歌、
甲子園で聞いてみたいなあといつも思っています。

蘇れ、池田高校!

いつまでも応援しているぞ!



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