第1回大会から1世紀を迎えるまでに、
ようやくたどり着いた夢。
それが、花咲徳栄が成し遂げた『埼玉県の夢』、
夏の全国高校野球選手権大会の優勝でした。
昨日の放送中も言っていましたし、
そこかしこでコメントされているのは、
『埼玉県は強いのに、まだ優勝したことがないなんて、信じられない』
ということ。
しかし長く不遇な時代を見てきた者にとっては、
そんな認識はまるでなし。
埼玉県勢の優勝は”果てしないまた夢”で、
そこまでたどり着くことを、
まさに一日千秋の思いで待っていた・・・・・ということに尽きます。
かくいうワタシは、
生まれも育ちも埼玉県。
10代中盤のの多感な時代までを埼玉で過ごした、
”埼玉っ子”です。
その後埼玉とは縁がなくなりン十年が経ちますが、
『出身地は埼玉』であることは、
いつまでたっても、
ワタシのアイデンティティーです。
7,8歳のころからスポーツに目覚め、
その頃から最も好きなのは高校野球。
そして続いて、高校サッカーやプロ野球などでした。
その頃埼玉といえば『サッカー王国』。
浦和のサッカーは、
そりゃあまぶしいものでした。
浦和市立の『赤き血のイレブン』はあまり記憶にないものの、
浦和南の選手権連覇などは、
熱狂して声援を送っていたものです。
まさに『埼玉県の誇り』そのものでした。
そして一番好きな高校野球。
ワタシの記憶の一番古いところから埼玉県の高校野球の歴史を引っ張り出してみると、
1972年(昭和47年)にぶち当たります。
前年の71年に、確か深谷商にいいピッチャーがいたとかで、
そんな話もうっすらと記憶に残っていますが、
72年の記憶が鮮明なのは、
その時埼玉県代表が甲子園に出場していなかったから。
ワタシはそのことが不満で不満で、
よく親に『なんで埼玉代表は、甲子園に出ていないの?』ということを言っていた記憶があります。
確かその年は山梨と合同で1代表の【西関東】という枠で代表校が送り出されていて、
代表は山梨の峡南でした。
狭~い世界で生きている幼少時ですから、
自分の県が代表を送っていないという事実、
それは本当にショックなものでした。
しかし翌年。
川越工業が夏の大会に出場すると、
なんとあれよあれよという間に準決勝に進出。
その頃流行り(?)の『小さな大投手』指田投手を擁して、
並みいる敵を倒して4強まで駆け上がった姿に、
まぶしさを感じました。
なにせその年は、
江川の作新がいたり広島商がいたり、
はたまた銚子商が強かったり、
とんでもないレベルの高い大会でしたから。。。。
そして翌年、
初めて甲子園に足を踏み入れたメモリアルな年の埼玉の代表は上尾。
この年のエース松久投手もまさに『小さな大投手』という風情の下手投げの好投手で、
2回戦で平安に延長の末敗れた時は本当に悔しかった。
このときのアサヒグラフの見出しは『上尾、十中八九の勝ちを逃がす』でした。
あまりに悔しくて何度も何度もこのページを見ていたので、
記事の見出しも記事も、ほとんど当時は暗記していたほどでした。
翌年はもっと悔しかった。
この年の上尾はまさに『野武士軍団』という風情で、
無頼派のベテラン監督である野本監督に率いられ、
強力打線を軸に、そりゃあかっこいいチームでした。
今投手、中村捕手や塚原選手など、
いまでもプレーぶりを思い出せる選手ばかり。
2回戦で小倉南の好投手であった二保投手から後半に二本のホームランで追いついてのど派手なサヨナラ勝ち。
3回戦では前の試合でサイクルヒットを打った玉川選手擁する土佐を一点差で破って、
準々決勝ではあの原辰徳の東海大相模と大激戦。
8回に3点を挙げて逆転すると、
その裏満塁のピンチで迎えた原をキャッチャーフライに打ち取って、
逃げ切り勝ちを収めたのでした。
ワタシの中では、
この年の上尾の大躍進は、
深く深く心に残っています。
本当にかっこいいチームでした。
それだけ毎試合強豪を倒して臨んだ準決勝の相手は初出場の新居浜商。
はっきり言ってワタシ、
この試合は最初から勝ちを確信していました。
これまで強いチームばかりを倒してきていたので、
初出場で『聞いたことがない』新居浜商に、
負けるというイメージは全然沸いていませんでした。
実際新居浜商は、
これという強烈なインパクトのチームではありませんでしたからね。
(竹場選手というスラッガーが、ひげを生やしていたのが記憶にありますが。。。。。当時は、いい時代でしたねえ。高野連からのお咎めもなかったんですから。そしてその竹場選手に、準決勝はいいところでホームランを食らったんです。)
『あの強い上尾が、負けるはずはねえ』
と思っていましたが、
雨中のナイター決戦で、
本当に悔しい1点差負け。
悔しくて悔しくて、1週間ほど立ち直れませんでした。
40年以上経った今でも1点差の9回、
ノーアウトで上尾の選手が試みたセーフティーバント、
『あれは、セーフだ!!!』
と思ったりしています。
当時は準決勝の試合後、
インタビューが球場の中で行われていた記憶があります。
それもまた、悔しさに拍車をかけている一つの要因ですかね。
今でもあの大会を思い出すたび、
『上尾が決勝に行っていたら、習志野には勝てた気がするなあ』
なんて勝手に空想しているワタシです。
そんな70年代は、
結構埼玉のチームも甲子園で活躍することが多くて、
ワタシはそのたびに熱狂のボルテージを上げまくっていました。
しかしながら、
この年代あたりまでは、
関東は本当に強くて大型なチームが多くて、
関東大会に出場する埼玉のチームは、
まさに『お呼びじゃね~んだよ』って感じで蹴散らされていました。
特に千葉と神奈川のチームの強さは別格。
というか、
銚子商と東海大相模など、
特定のチームの強さが際立っていました。
当時センバツに出られる関東の枠はわずか3校(東京を除く)。
ということは、
関東大会で4強に入ってもまだ【確約】というわけではなく、
そこまで進出するのは、大型チームを作れない埼玉のチームにとっては、
並大抵のことではありませんでした。
実際ワタシが高校野球を観だした頃から、
埼玉代表がセンバツに出場することは全くなく、
初めて出場したのは何と80年代に入ってからでした。
ちなみに70年代は、
10年間でわずかに1校しか出たことがないほど、
関東の中では『野球弱小県』として扱われていたのを思い出します。
そんな埼玉県勢、
まあ埼玉県勢だけではなく、
原辰徳卒業後、東海大相模が徐々に力を落としていったのに呼応して、
昭和50年代初めまでの『関東が強い』という高校野球の勢力図は、
完全に『関西と四国が強い』勢力図に塗り替えられてしまっていました。
昭和50年代は、
PLと箕島が台頭、
それに兵庫の強豪や天理なども加わって、
本当に関西勢が強かった。
四国も高知商、池田、松山商など、
強豪が多かったですね。
そんな中野本監督率いる上尾が、
埼玉の中では一人気を吐いて、
昭和54年にはアンダースローの仁村投手を擁して、
ゴリゴリの優勝候補であった牛島―香川のバッテリーの浪商を9回まで追い詰めたこともありました。
牛島が起死回生の同点ホームランを放った瞬間から延長で敗れるまで、
ワタシの頭は真っ白になってしまって、
ほとんどその間の事を覚えていないような状況です。
ワタシの中の『高校野球名勝負』第1位と言っても過言ではない試合でした。
昭和57年には捲土重来を期した上尾が、
左腕の好投手・日野投手を擁して、
あの江川以来の無失点記録を引っ提げて選抜にやってきたこともありました。
優勝候補は『東の上尾、西の箕島』と言われていましたが、
あろうことかその両校は初戦で激突。
『これは・・・・・』
ということでワタシも甲子園に観戦に行きましたが、
あの日野が箕島にボコボコに打たれて敗れ、
そのショックで椅子から立ち上がれなくなりました。
『強豪に勝つ』ということがどれだけ難しいのかを、
痛感させられた出来事でした。
そんなこんながあった埼玉県の高校野球。
夏の代表校となった上尾以外のチームは皆小粒なチームが多くて、
とても深紅の大旗を争えるチームは出ませんでした。
その頃上尾と覇を競っていたのは所沢商で3回の夏の出場を記録していますが、
甲子園ではわずか1勝を上げたのみでした。
熊谷商、川口工なども甲子園経験があるものの、
ともに『1回勝てればいいかな?』という感じの位置づけのチーム。
『やっぱり上尾が出なきゃなあ……』
なんてワタシは思っていました。
とそんなところへ、
衝撃のニュースが。
あの上尾の野本監督が、
新設の私立校に移るとのこと。
その学校こそが、
浦和学院でした。
埼玉県はそれまで、
完全な『公立天下の高校野球』で、
昭和60年に春の秀明、夏の立教が埼玉県で初めて私立校として甲子園に出場するまで、
公立校しか甲子園に出場したことはありませんでした。
その立教とて選手を集めてチームを作る学校ではないので、
浦和学院が世の中に出てくる時、
ワタシだけでなく多くの関係者は、
『もしかしたらこれで埼玉の高校野球の流れは変わるかも』
と思ったはずです。
そして。。。。。
その流れは、
まさに劇的に変わりました。
野本監督に率いられた浦和学院。
最初に目に触れたのは昭和61年春のこと。
春の関東大会で、
初出場を飾った浦和学院が、
今までの埼玉勢には全くなかったような豪打で勝ち進んだというニュースでした。
鈴木、半波、伊藤、谷口らの打線は、
それまでの『埼玉の常識』を覆すほどの猛打線。
当時は春の大会を映像で目にすることはできなかった時代なので、
ワタシは『夏も浦和学院が出てこないかなあ・・・・・』
と思いながら、ワクワクしながら県大会を見守ったものでした。
果たしてこのチーム、
見事に夏の甲子園初出場を決めますが、
野本監督は大会中に倒れて、
甲子園の初戦の直前、
不帰の人になってしまいました。
しかしその弔い合戦で臨んだ大会で、
浦和学院は持ち前の打力とスクリューを武器にするエース谷口の覚醒で勝ち進み、
準決勝まで進出しました。
準々決勝では、エース岡林の高知商に快勝。
この当時の高知商。
まだまだ強い時代の残り香がバンバンの時代で、
ワタシの中では『埼玉代表が高知代表に甲子園で勝った』ということは、
本当に大きなニュースでした。
残念ながら準決勝では、
松山商の勢いの前になすすべもなく完敗。
しかし埼玉勢の『真紅の大旗』に挑む戦いは、
新しい時代に突入したと言える大会でした。
翌昭和62年には連続出場した浦和学院が鈴木健・谷口の柱を擁して、
優勝候補にすら挙げられていたものの、
初戦で伊良部の尽誠学園に抑え込まれて完敗。
涙にくれました。
そんな昭和63年、
今度は昭和40年代を思い起こさせる〔超小型〕の全員野球のチームである浦和市立が甲子園へ。
『チーム打率49代表校中最低』
というチームでしたが、
エース星野の笑顔の投球と粘りの攻守で接戦をものにし続け、
あれよあれよという間に勝ち進み社会現象に。
『さわやかチーム』として、
社会の耳目を集めました。
ちなみにこのとき準決勝で敗れた相手が優勝した広島商。
昭和48年に川越工がさわやか旋風を巻き起こして4強に進出した時も、
敗れた相手は広島商で、その広島商が優勝しました。
何か因縁を感じる大会でした。
そして世の中は平成に。
埼玉代表はこの頃から、
大半が私立強豪校で埋め尽くされてくるようになります。
春日部共栄が高知高校出身の本多監督を招聘して、
浦和学院に続いて野球部の強化を始めると、
見る見るうちに強豪に名乗りを上げて、
浦和学院と『県内2強』になっていきます。
そこに体育課を持つ公立校の大宮東も加わって、
この争いは関東でも有数のレベルの高さとなってきます。
その埼玉が輝いたのが平成5年(1993年)。
スラッガー平尾を擁する大宮東が、
『関東5番手』で滑り込んだ選抜で大ブレーク。
準優勝に駆け上がっていくと、
負けじと2年生左腕・土肥を擁した春日部共栄が夏は決勝へ。
夏の甲子園初制覇が、
最も近づいた年でした。
(しかしながらワタシは、諸般の事情によりこの年は春、夏ともにまったく甲子園を観戦できず。なので、この年の埼玉の輝きは、リアルタイムで走りません。その後VTRにて、全部の試合を見ましたが。。。。)
ここに至って、
埼玉県民はだれしも、
『埼玉勢の夏の甲子園制覇は、時間の問題』
と思ったのではないでしょうか。
実際この両校に浦和学院を加え、
毎年甲子園に出た代表校は、
『有力校の一つ』に加えられていました。
しかしここからが長かった。。。。
浦和学院は毎年、
ドラフト候補の選手を擁した大型チームを作ってくるものの、
どうしても甲子園での上位進出はならず。
春日部共栄も、
一歩届かずの年が続きました。
そうこうしているうちに、
新たな勢力の台頭も始まり、
県内では埼玉栄、聖望学園、花咲徳栄などの強豪校が次々に生まれてきました。
聖望学園は99年の初出場時に鳥谷(阪神)を擁して注目を浴びました。
花咲徳栄は01年夏に初お目見え。
その前年あたりから、関東の中ではかなり実績を残していましたから、
『期待のニューフェース』という感じでしたね。
浦和学院の新世紀最初のピークは02年、03年あたり。
須永を擁して『優勝候補』に上がり、
02年の夏、
選抜優勝の報徳に快勝したときには、
『こりゃあ、浦学行っちゃうかな?』
と期待させたものの、
次の試合では4点リードの8回に須永がまさかの乱れ。
川之江にひっくり返されて、
ワタシも試合を見ながら茫然自失。
なんだか荒れてしまいました。
その後はずーっと8強まで進出はならず。
記録を紐解くと、
夏の大会に限ってみれば、
93年の春日部共栄の準優勝以来、
毎年のように『強豪』『大型チーム』を甲子園に送り込みながら、
8強入りしたのはわずかに03年の聖望学園のみ。
春の選抜では、浦和学院の優勝や聖望学園の準優勝などがあったりしたのに、です。
毎年毎年、
『負けて悔しかった』
というのが恒例行事のようになってしまっていましたね。
しかしその流れ、
一昨年の花咲徳栄が8強に進出してちょっと払しょくされ、
そして去年の悔しい負けを経て今年、
ついに大願は成就されました。
本当に長年のうっ憤をすべて晴らすような、
花咲徳栄の見事な戦いぶりでした。
50年近い埼玉県の高校野球の歩みを考えると、
花咲徳栄の『夏の全国制覇』は、
本当に感慨深いものがありますね。
関東勢にとっても、
苦難の80年代、90年代を経て、
00年代になってから本当に良く甲子園で活躍するようになってくれています。
レベルが少しずつ、
上がっているんですかね。
関東は決して『野球どころ』とは言えないと思うのですが、
各チームの頑張りには、称賛を惜しみません。
00年代になってから、
茨城、東京、群馬、神奈川、栃木、そして埼玉と、
6都県から優勝チームが出ています。
残っているのは、
『元祖・野球どころ』の千葉と、
春夏通じて優勝のない山梨だけです。
千葉は一時の低迷期を脱して、
このところ関東大会でも、甲子園でも、
着実に実績を残しつつありますから、
数年のうちに『歓喜の優勝』の瞬間がやってくるかもしれません。
山梨は村中監督の東海大甲府と山梨学院の吉田監督の『2強』が激しくつばぜり合いを演じていますから、
レベルが上がってくることが十分に考えられます。
こちらも何とか、全国上位への道筋を作ってもらいたいところですね。
こうして書いてみると、
50年近い年月というのもまさに、
『うたかたの夢』
と言えるのかもしれません。
今年、県民の大きな夢をかなえてくれた花咲徳栄の監督、選手、関係者には、
お礼の言葉しかありませんね。
ありがとう!!!
感動した!!!