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16年目突入。ビッグイベントに心躍らせながら、草の根のスポーツの面白さにも目覚めている今日この頃です。

夏の甲子園 名勝負集その3

2010年10月15日 | 高校野球名勝負

ずっと長いことほっぽらかしていた、【私的】甲子園名勝負集のその3です。
まだまだ昭和50年代前半。
ところで、最近はユーチューブなんかで、とんでもない映像が見れて感激することがあります。
この間は、「その2」で書いた浜松商・高林選手のサヨナラホームランの【実況】が出てきて、
ビックリするやら感激するやら。
ということで、第3回となりました。

昭和52年 1回戦
智弁学園(奈良) 2-1 星稜(石川) 

あの名将同士の直接対決はカクテル光線に照らされて・・・

【甲子園名勝負】とうたわれる本には、絶対に載ることがない試合だと思います。しかし、ワタシにとっては忘れられない試合です。第1日目の第3試合に組まれたこの試合は、選抜ベスト4にして今大会の優勝候補【筆頭】にも挙げられていた智弁。そして対するは、剛腕小松を擁して昨年の選手権ベスト4の星稜。率いるのは智弁が高嶋監督(現智弁和歌山)、星稜が山下監督。両監督共にまだまだ青年監督で、若々しい対決でした。智弁のエース山口は、長身からの重い速球で県予選で天理を撃破。星稜の小松は、多分150キロ近く出ていたであろう快速球を武器にしていました。両投手の投げあいは見事でしたが、忘れられないのはこの日(?)の夜に放送された朝日放送のドキュメント番組。たしか【ああ甲子園】という題名だったと思います。そこでは若い両監督の動きを追って、30分番組が構成されていました。この番組を見て、ワタシの頭には高嶋監督、山下監督の名前が強烈に刻み込まれたものでした。第3試合だけあって、途中からはカクテル光線に照らされて幻想的な試合となりました。
この対決に勝った智弁は優勝間違いないと思われていましたが、3回戦で今治西の三谷投手の前に打線が沈黙して、甲子園を去ったのでした。いまだにワタシは、このチームこそが【智弁最強】だったと思います。星稜の小松は、その後のプロでの活躍はいうまでもないのですが、雪国の石川県から出たということで、センセーショナルでした。春のセンバツでもカクテル光線の中敗れ去り、【悲劇の投手】のにおいのする、好投手でした。
 


昭和52年 3回戦
 熊本工(熊本) 4-3 福島商(福島) 

玉三郎・三浦悲劇の終幕。サヨナラデッドボールで、甲子園にサヨナラ

 福島商のエース三浦は、長身ですらりと伸びた手足。紅顔の美少年とはまさに彼のこと、という風情を漂わせながら県大会無失点という記録を持って甲子園に乗り込んできました。初戦では九州産業(福岡)を寄せ付けない貫禄のピッチング。「やっぱりすげ~」と甲子園をうならせました。この日の3回戦は九州の古豪・熊本工が相手。九州屈指の相手を向こうに回し、湿りがちだった打線が初回に3点を先取。甲子園の雰囲気は、三浦のピッチングのみに注がれた感がありました。しかし、熊本工はさすがに九州の猛者。エース林田で相手の失点を食い止めると、ジワジワと追い上げにかかり、6回についに追いつきます。三浦はこの日、後半になるほど球威が落ちて、残念ながらスタミナがいまひとつなところを露呈してしまったのですが、熊本工の圧力は素晴らしいものがありました。そして延長11回、堪えきれなくなった三浦が1死満塁のピンチを作ると、最後はエース林田にヘルメット直撃の押し出し死球を与えてジ・エンド。【甲子園の玉三郎】と呼ばれた三浦の夏は、はかなく最後を迎えたのでした。
 これに勝った熊本工、次の試合では新しいヒーローである東邦のバンビ坂本に完封で抑えられ、甲子園を去りました。


昭和52年 準決勝
東洋大姫路(兵庫) 1-0 今治西(愛媛)

剛腕の投げ合いに甲子園沸騰!手負い・松本が気迫で投手戦を制す

 何回も甲子園に出てきているどの強豪校にも、「これは」と思うチームがあると思います。この両校のこの年のチーム、まさにそういうチームでした。東洋大姫路は、前年に小南投手、弓岡選手を擁して「全国制覇も近い」と思わせるチームを作ってきましたが、本当の【勝負の年】はこの年だったことは明らかでした。経験も十分に力のある選手が揃い、超高校級といわれた松本-安井のバッテリーで、粗さはあるものの智弁学園と並ぶ優勝候補に早くから挙げられていたチームでした。一方の今治西は、大会前に注目されることはありませんでしたが、大会に入ってからグングン成長。エース三谷(のち早大)を軸にしっかり守り、愛媛伝統のキレのある攻撃が得意な好チームでした。特にトップの越智は好選手でした。
 試合は予想通りのしのぎあい。東洋大姫路の猛打線を持ってしても、前の試合で智弁を完封した三谷のコントロール抜群の速球の前に凡打の山を築きました。負けじと松本も”大会NO1"の名に恥じない素晴らしいピッチングを披露。まさに手に汗握る、という形容がぴったりの試合で延長へ。10回の表、試合を決めたのはスクイズでした。ピッチャー前に転がったスクイズをダッシュよく捕球した三谷は、キャッチャーにグラブトス。しかし、一瞬走者の足が速く、決勝点は東洋大姫路がもぎ取り、そのまま逃げ切りました。後半の苦しいところでピッチャーライナーがヒザに直撃して倒れこんだ松本が、何もなかったような涼しい顔で最後まで投げきったそのタフネスぶりには、本当に驚きました。



昭和52年 決勝
東洋大姫路(兵庫) 4-1 東邦(愛知)

バンビを砕くサヨナラ3ラン!東洋大姫路、サヨナラで激戦を制す

 甲子園は、新しいヒーローを求めていました。
 太田幸二から始まるアイドル選手の系譜。箕島の島本を挟み、前年までは東海大相模・原がその座に君臨。アイドルはそのルックスと類稀なる力を持ち、更に悲劇性もなければならない。そんな甲子園の神様に微笑みかけられたのが、この年の東邦のエース、バンビ坂本でした。
 大会前はまるで下馬評にも上らなかったこの15歳のエースは、大会に入って投球を続けるごとにみるみる成長。ついに決勝まで進出して、大会の話題を独り占めしました。この坂本率いる東邦をAブロックとすると、大会前に有力校に挙げられていたチームのすべてが集まりしのぎを削ったのがBブロック。そしてそこを勝ち上がってきたのは、やはり”優勝候補”といわれた東洋大姫路でした。
 もともと向っ気の強い選手が集まった東洋大姫路は、相手エースが1年生になったと知るや、ものすごい闘争心をむき出しにしました。特に松本・安井の二人は、バッテリーでもあり打てば3・4番の主軸。試合前夜には「勝負してこい」的な挑発を行っていた記憶があります。気迫満点でした。対する坂本は”柳に風”のような風情で、ひらりひらりとかわしていくようなナイスピッチングを披露。「東洋絶対有利」の下馬評は、試合が進むにつれて「もしかしたら・・・」へと変わっていきました。坂本のピッチングは、球の出所が見づらい上に手元で伸びて、しかも適当に荒れていたため打者としては本当に打ちにくいものだったと思います。
 しかし最後は、延長10回4番の安井が外角ストレートを叩くと、打球はグングン伸びてライトラッキーゾーンへ。3年連続となる決勝戦でのサヨナラゲームとなり、熱戦に終止符が打たれました。坂本はこの後期待されながら甲子園への帰還はならず。ドラ1で阪急に入団、大投手への道を歩むかと思われた松本も、最後は泣かず飛ばずで終わってしまいました。この両チームからプロで活躍した選手は皆無。しかしだからこそ、甲子園でその力を燃やし尽くしたこの決勝戦は、燦然と輝くのです。


昭和53年 1回戦
仙台育英(宮城) 1-0 高松商(香川)

球史に残る投手戦。河地・大久保互いに譲らぬ決着は押し出し死球。

 球史に残る投げ合いとして、燦然と輝く試合がある。まさにこの試合はそんな戦いだった。
 対戦が決まったときから「凄い戦いになるかも」と思われていた両校の戦い。高松商・河地は3季連続の甲子園。春のセンバツではこの日の対戦相手と同じ宮城代表の東北に敗れ去っているため、捲土重来の気持ちが強かった。対する仙台育英は、「みちのくの剛腕」といわれた無失点エースの大久保を擁した有力校。「どっちの投手が上か」を決める凄い戦いとなった。河地が切れのあるストレートと変化球で相手打線を抑えれば、大久保は重そうなストレートで三振の山を築く。両者一歩も譲らない素晴らしい投げあいは、延長になっても一向に終わる気配を見せなかった。
 「いつまでも見ていたい」と思っていた試合が突然に終わりを告げたのは、引き分け再試合が見え隠れするようになった延長17回。さすがに疲れの出た河地が1死満塁のピンチを迎えると、手元の狂った1球が打者の頭へ。デッドボールでの信じられないサヨナラ劇。ヒザに手を置き、うつむいてその後泣きじゃくった河地の姿、いつまでも忘れられないものとなりました。 



昭和53年 2回戦
岡山東商(岡山) 3-2 福井商(福井)

木のバットで逆転打!岡山東商、センバツ準Vの福井商にひるまず。 

この年のセンバツで準優勝した福井商は、長打力のある打線とサブマリンエース・板倉で戦力充実の年を迎えていた。初戦でも作新学院を一蹴。『夏も強いな』という印象を残してこの2回戦へ。対する岡山東商は、前年まで毎年のように剛腕エースを擁して大型チームを作って甲子園に登場するものの、ことごとく敗れて甲子園の怖さを味わわされつくしたチームであった。過去数年間と比較して、このチームは岡山東商にとっては実に『小粒な』チーム。エースの藪井は横手から丁寧に討ち取る技巧派。打線の迫力もいまひとつで、下馬評は全く高くなかった。しかし、このチームには前年までのチームにはなかった”粘り”が備わっていた。その真骨頂が9回。ずっと淡々と進んでいたこの試合、福井商得意の勝ちパターンと思われたが、岡山東商はそれまで全く捕らえきれなかった板倉を9回ついに捕らえた。1死1・2塁のチャンスを掴むと、バッターは2年生の石岡。この石岡、打席に入る前にバットを木のバットに持ち替えて登場。今では考えられませんが当時でも珍しく、翌日の見出しは『木のバットで逆転打!』という文字が躍っていました。逆転で選抜準優勝チームを破った岡山東商の快進撃は続き、次の試合でも旭川龍谷(北北海道)に対して終盤石岡の逆転HRでひっくり返しての勝利。準々決勝では、優勝候補に上げられていた豊見城(沖縄)との大接戦をまたも逆転、サヨナラで制して準決勝まで進出しました。まさに粘りと無欲の快進撃。名門だけにあまりセンセーショナルに報道されることはありませんでしたが、”甲子園の原点”のような全員野球のチームでした。 

 
昭和53年 準決勝
PL学園(大阪) 5-4 中京(愛知)

【逆転のPL】神話の始まり。物語の始まりは突然に。

 長い甲子園の歴史の中でも、大逆転というと真っ先に浮かぶのがこの試合だ。『逆転のPL』という異名もまた、この試合とその後の決勝の2試合連続での逆転サヨナラ勝ちでPLにつけられた名だ。PLは今でこそ甲子園でサラッと負けて帰ることも多くなったが、この大会の後平成の前半ぐらいまでは、9回になったら『何かが起こる』雰囲気をぷんぷんと匂わせるチームで、あの独特の応援とあいまって、相手にかけるプレッシャーは尋常なものではなかった。
 試合は9回に幕が開いたといってもいいであろう。エース西田の3塁打から始まったこの回のPLの攻撃は、まさに”神がかっていた”としか言いようのない凄まじいものだった。甲子園の神様がPL教の神様と手を握ったかのような、あっけにとられる猛攻。こういうときは、打球も野手のいない方向へいない方向へと、守るチームをあざ笑うかのように飛んでいくものだ。中京は9回表までまさに”完璧な”試合を展開していたのだが、9回裏は魅入られたように”地獄の扉”を開けてしまった。中京は、この前年に不祥事で大会出場を辞退。名誉回復と捲土重来を期して全国制覇を狙ったメンバーで大会に乗り込み、箕島、天理などの強豪をものともせずに力強く勝ち進んできたので、優勝に最も近いチームと見られていた。最終回のPLの攻撃から試合の展開はがらりと変わり、中京は守勢に回ったときの脆さを見せて、大会をあとにした。
 それにしてもPLの猛攻は見事。西田、木戸、柳川の中軸は高校生離れした打球の鋭さを見せて優勝を牽引し、守りでも決して破綻することのないPL野球の真髄を甲子園で披露した。


昭和53年 決勝
PL学園(大阪) 3-2 高知商(高知)

PL連日の大逆転サヨナラで初めてのV。はかなく散った名門・高知商初優勝の夢。

 【逆転のPL】が準決勝に続いてまたも大逆転勝ちで初めての優勝を成し遂げた。
 決勝の相手は高知商。2年生エース・森を擁して、大会期間中に凄まじい成長を遂げたチームだ。チームの中心は明神・森田の1・2番コンビ。この二人が塁に出て中軸が返すのがパターンのオーソドックスなチームであったが、若い名将の谷脇監督の下、よく鍛えられたチームだった。しかし高知商を有名にしたのは【洗濯しないユニフォーム】。ツキを落とさないためということで、高知商は大会期間中一度もユニフォームを洗濯しなかった。その前からそうであったのかもしれないが、この大会のように後半まで勝ち進むことがなかったので、目立たなかったのかもしれない。決勝前のベンチ前、泥に汚れたユニフォームを見にまとって試合開始を待つ選手たち。テレビで見ていてその姿をなんとなく【カッコイイ】と思ったのは、子供ゴコロゆえか。
 試合は高知商ペースで最後まで進んだが、9回にはいると様相がいっぺん。多分前日の残像がそうしたのかもしれないが、『何かやる』PLの攻撃を前に、球場全体が異様な空気に包まれていたのは、TV画面からもはっきりと伝わってきた。そして先頭打者がセンター前にぽとりと落ちるヒットを打つともう球場全体はPLの逆転への期待感一色。そんな雰囲気に気おされてか、高知商のエース・森の顔面が固く硬直したままだったのが印象に残っています。そして試合は大観衆の期待するほうへ。2死まではこぎつけたものの、西田に同点の2塁打を食らい(この2塁打、1塁戦をゴロで抜けたのにライトフェンス際で大きく弾んでラッキーゾーンに入るエンタイトル2ベースでした。後にも先にも、こんな打球は見たことがありません)最後は柳川に左中間を大きく破るサヨナラヒットで決着がつきました。
 サヨナラ打を打たれた方向に目をやり、呆然とした表情を浮かべたあとに泣きじゃくる森投手のマウンドでの姿が目に焼きついています。
 PLはまたも神がかった逆転劇ではじめての優勝を飾りました。優勝インタビューで当時の鶴岡監督が、『教祖様のおかげ』といったのは有名な話ですが、この準決勝、決勝の大逆転を見ると『そうなのかなあ』なんて当時の私は思っていました。懐かしい思い出と共に蘇る決勝戦です。



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1 コメント

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来年は第100回記念大会。。。☆ (なにわのヒバゴン)
2017-07-24 04:22:01
懐かしいですね。書かれている試合殆どテレビ観戦していたのであらゆるシーンが走馬灯のようにオーバーラップ。75年から夏の決勝は4年連続サヨナラ決着でしたし、本当に高校野球が熱く‘国民的行事’だった昭和の時代はチームや選手のキャラも濃くて思い出が尽きないですね。
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