インターネットに上げたものは誰が見ているかわかりません。
上げた以上は、誰に見られてもいいという、一定の覚悟を持たないと。
というのは私自身も昨年、このブログで苦い経験をして、改めて身に染みたことです。
でもデジタルネイティブと言われる世代の若者でも、そこが全く分かっていない人が多いみたいですね。
昨日話題になったのは、回転寿司の大手チェーン店で、未成年の男が、置いてある醤油の容器の注ぎ口や…
置いてある、お茶を飲む茶碗のふちを嘗め回した後で、また元に戻したり…
ベロベロ舐めた指で、回っている寿司のネタをぐりぐり触ったり…
という動画が、ネットに拡散されてしまった事件です。
ご存じの方も多いと思います。
このために、当の回転寿司チェーンの株価が一時下落したり、客足が明確に減ったという事案。
当事者の男と親が会社に謝罪したものの、企業側は受け入れず「刑事・民事の双方で法的な手続きを継続する」と。
損害賠償の請求額は、百億円以上になるかもしれない、とのこと。
彼自身も家族も、たった数十秒の動画のせいで、人生が滅茶苦茶になりました。
自業自得である反面、なんとも恐ろしいことです。
やった行為が反社会的なのは言うまでもないですが、それをネットに上げることのリスクをわからないのが、恐ろしい。
私は、当該の動画の、目隠しもモザイクも入れていないものを目にする機会があったのですが…
金髪の少年で、実際は高校生らしいのですけれど、表情やしぐさが、まるで小学生みたいに何とも幼い感じでした。
デジタルデバイスを使うことに習熟している一方で、精神年齢が「お子ちゃま」のまんまなのでしょう。
これを見て、回転寿司そのものに行く気がしなくなってしまった、という人もいます。
同じ日に福岡県の、地元では有名なうどん店のチェーンで…
客席に置いてあって自由に取れる揚げ玉を、みんなが使うスプーンですくって口に入れ、スプーンを戻して…
得意そうに親指を立てている少年の動画が拡散されていました。
調味料などを客席に置いて、自由に使ってもらうという飲食店の業態そのものの、脅威となる動画。
こちらの犯人も、おそらく特定されて、高額の賠償金を払わされるのでしょう。
そしてまた同じ日に、誰でも知っているコンビニチェーンで、バイトらしき若い女性が…
カウンターに立っているときに、仲間を差して…
「こいつおしっこもらしました!」
と笑いながら言ったり、店の鏡に噛んだガムを貼り付けている動画も。
昨日は、回転寿司の動画が拡散されたために、こうした不品行の動画を拡散するのが流行ったのでしょう。
アルバイト店員がバックヤードで、売り物や店の備品にいたずらして得意顔をしているなど…
反社会的な不品行をしているところが、ネットで拡散されることは…
「バイトテロ」という通称で、数年前から問題になってきました。
(テロという言葉の定義から考えて、バイトテロというのはデタラメな日本語なんですけど)
こういった不品行が、店側でも客側でも、目に見えないところで行われているのは、確かに大問題です。
人間の「性善説」みたいなものに掉さした商売のやり方が、もはや通用しなくなりつつある社会なのかも。
同時に問題だと思うのは、結果的に店まで特定されて、やった犯人も特定され、大勢が社会的制裁を受けているのに…
こうした動画をわざわざネットに上げる人が、後を絶たないことです。
反社会的行為がバレて、仕事をなくしたり、一生働いても返せない賠償金を請求されたり…
そうした「自爆行為」になることを、なんでやってしまうのでしょうね。
ネット民は「イキリ」と呼んでいますけれど…
「自爆する」可能性があることが全く理解できない、残念な頭の人間がいるのはまあ、間違いないです。
一方で、自爆してもいいからとにかく目立ちたい、何でもいいから自分を見てほしいという…
過剰な承認欲求に駆られている者も、いるのではないかと。
だから、わざわざネットの世界=「世間」に向かって、見せつけるようなことをするんじゃないですかね。
世に言う「迷惑系ユーチューバー」というのも、そうした類の人間なんでしょう。
根っこのところは、低速で異常な爆音を立てながら、公道で蛇行走行したり、交差点でグルグル回っていたりと…
ひたすらデモンストレーションにいそしんでいる、暴走族のたぐいも同じなんだと思います。
「僕を見て!」「俺を見てくれ!」「あたしに目を向けて!」「見ろよ、すげえことしてるぜ!」
飲食店での反社行為動画からも、バイトテロからも、迷惑系ユーチューバーからも、暴走族からも…
そうした叫びが聞こえて来ます。
育ってくる中で、親や教師や、周りのおとなたちから…
「ちゃんと見てもらえなかった」「自分を認めてもらえなかった」
そして今も、見てもらえず、認められず、社会の端っこに追いやられている。
自覚しているかしていないかは別として、そういう思いが、過剰な「承認欲求」になっているのでしょう。
結果…
最悪、自爆してもいいから、なんなら死んじゃったって構わないから、とにかく自分がやることを…
自分が「ここにいる」ということを、世間に向かって見せつけてやりたい!
そういう気持ちなんでしょう。
こんな若者を見て「しつけがなっていないからだ!」と断じる高齢者世代が多いのではないかと思います。
でも、それはちょっと違う…というか、むしろそんな上の世代の人たちが…
「異常な承認欲求」を抱く人間を作り出しているんだと、私は思いますよ。
日本の親は、また教育者は、伝統的に、子どもの良い所をほめて伸ばすよりも…
悪い所を矯正するほうに、力を入れがちなところがあるように思います。
「お前はここが駄目だ」「そんなことをするな、こうしなさい」
「みんなと同じにしなさい」「黙っておとなしくしていなさい」「親や先生の言ったようにしなさい」
そう言って、子どもや若者を「個」として、ひとりひとり違った「個人」として見てあげない。
規格からはみ出さない「普通」の人間、親を含めた前世代の価値観に沿った人間、「世間」に逆らわない人間…
究極的には、社会の歯車として、個の存在を消した「透明人間」になることを要求してしまっているんです。
無自覚な「おとな」が多いけれど、それが長らく日本の教育の、基本的な態度になってしまっているから…
だから、いま、ここに生きている、「俺」を「私」を見てくれ!になってしまうんですよ。
多くの子どもや若者たちは、そんな欲求を持っているということも、自覚できていないのでしょうけれど。
そういった社会の傾向、なんなら病理と言っても過言ではないものが…
ネットの世界で反社会的なこともやってしまう「見て見て人間」を作り出してるんじゃないでしょうか。
「今どきの若者はしつけがなってない」という人たちが作り出してしまった、モンスターなんじゃないですか?
しつけを強化する?全く逆です。
そうなってしまうのは、枠にはめて、羊の群れのように囲いの中に追い込んで、小さいうちから個性を殺すからです。
大江健三郎氏の小説のタイトルではないですが「芽むしり仔撃ち」ですね。
個を無視して「秩序が一番大事」と子どもの頃から無理やり押し付けるから、かえって逆に振れてしまう。その上に…
何が「自分」なのか、自分でもわからなくなってしまう。自分が心からしたいと思うこともわからない。だから…
本当に自分がしたいこととは無関係な、何ともバカな自爆行為をして、自己主張をしたつもりになってしまうんですよ。
これが真実だと思います。
わけもわからず規範を押し付けられても、人間は心から納得しないし、心から納得しなければ…
不安や不満がつのったときに、わけのわからない規範を破ることで、それを晴らそうとするんです。
そうではなくて、自分を個として大事にすること、同じように、他人も個として大切にすること。
「人はみんなかけがえのない大切な存在なんだ。だから君自身を傷つけることをしてはいけないし…
当然、同じようにひとも傷つけてはいけないんだ」ということ。
その基本がわからないと…
人間は、自分が追い詰められたり、抱えきれない不満を持ったり、やけになったら、かならず「やらかす」んです。
人権感覚が必要だというのは、つまりは、そういうことです。
それは「しつけ」とは違う。
私は子どもに、そういう教え方をしてきました。
結果、息子はひとに優しい、自分のことも他人のこともちゃんと気遣える人間になった…と思いますよ。
少なくともいろんなことが不満だったり、ストレスが溜まったりしても、反社会的なことは…
「世間」の目があるからでも、バレたら罰を受けるからでも、まわりがやらないからでもなく…
自らの意思で、やらない人になったと思います。
そして、別にしつけていないのに「礼儀正しい子」「いつも大きな声で挨拶してくれる子」とも言われてきました。
それは彼自身が「そうしたほうが、お互いに気持ちよく過ごせるじゃん」と思っているからみたいです。
お互いに気持ちよく過ごしたいというのは、要するに「お互いを大切に思う」ことから来ているのでしょう。
強制的で、納得感のない「しつけ」だけで育った人間は…
「世間の目」が許したり、周りのみんながそれをやり出したり、誰からも罰せられないとわかった場合は…
極端なことを言えば、人殺しだってやりかねないですよ。大昔、震災のとき、実際にそういうことがあったように。
今から150年ほど前から、78年前までの日本の場合は…
大量の「兵隊さん」と「女工さん」を生み出す必要があったから…
軍隊と、機械制手工業の現場に合う人間に「個」はかえって邪魔だったから…
人の個性はむしろ殺し、規格からはみ出した部分を削る教育の方が、望ましかったんです。
はたから見るとバカみたいな、意味不明の「校則」なんかは、今も続いている、その名残りです。
でも、もうやめましょうよ。
やめないと何よりも、現代に必要な、根源的なイノベーションなんか起きないですよ。
あらかじめ決められた型にはまるよう、理不尽などと言わず命令を聞くよう、厳しく躾けられた人間が…
おとなになってから、自分で考えて何かをすることが出来ないのを見て…
「指示待ち人間」だなんて批判するのは、残酷なことです。おとなたちがそうなるように仕向けたんですから。
そんな人間ばかりでは、様々な分野で、本当の意味での「改革」なんかできないです。
できないから、前に進めないから、行き詰まったら「昔に帰る」という方向に向かうしかない。
過去の日本を「取り戻す」というほうにしか行けないんです。
後戻りしたところで、歴史は進み、世界は前に動いてしまっているんですから、うまく行く道理なんかないのに。
ノスタルジーは、精神の安定には役立ちますけれど、それを行動の指針にしたら駄目なんです。
前に進めないから、日本の世界的な地位がどんどん沈没していっている、という側面もあるんですよ。
振り返るのじゃなく、ちゃんと前を向きましょうよ。
前を向けない人は表舞台から降りて、またそういう仲間は、まとめてごそっと舞台から降ろして…
前を向くことが出来る人たちに、全部任せましょう。
新しい時代を切り開けなかったなら、この国、本当に本当に、終わりますよ。
高齢者の方は「どうせ自分は老い先短いんだから」なんて言わないでください。
生涯独身の人や、子どもを持たなかった人も「どうせ俺には身内もいないんだから」なんて言わないでください。
生まれてから死ぬまで、人は全員が、社会の構成員であり続けるんですから。
社会のあり方に責任を持たないで済むのは、赤ちゃんと幼児だけです。
社会のあり方に責任を持つ気がない人は「少年犯罪も厳しく取り締まれ」なんてこと、言う資格ないですよ。
(勤労者のことを「社会人」なんて呼ぶ変な日本語があるから、職業に就くことを「社会に出る」なんて言うから、年少者や老人が社会に対して無責任になるんです)
まして、高齢者は社会の一員として、これまでそんな世の中を作って来てしまった責任があるんですから…
むしろ逝く前に、きちんと「落とし前」をつけておくこと…
後を継ぐ世代に迷惑のかからない、できるだけ良い社会を遺すことも、大事な「終活」なんじゃないでしょうか。
というわけで…
私が推している小倉唯さんの曲『白く咲く花』の中に、こんな歌詞があります。
「絶望感じるのもスタンダード いびつな心抱いて」
「本音を曲げて 嘘ついて 得る正解ってなんだ?」
「長きに巻かれ 陰隠れ 得る平穏ってなんだ?」
「一途さを武器に 摘まれぬ芽になれ」
「誰かに『いいね』と言われなくても 自分でそう よかったと言える人生がいい」
「私だけの 花や実に出会う旅 始まる」
まさに、ネット上で他人からの承認欲求を満たして「いいね」と言われたいだけの人生は虚しいです。
世間からの視線や、同調圧力や、押し付けられる軛(くびき)から解放された先に「私だけの花や実」がある。
若い人たちには、一途に「自分」と向き合って…
自分自身が「よかったと言える人生」を見つけてほしいと、切に願います。
今日の動画。
こちら『白く咲く花』の全曲盤です。
もし視聴できない方がいらしたら、こちらのMV(ショートバージョン)をどうぞ。