一応カトリック信徒としての籍はあって、24日の晩は例年の通り教会に行ってきました。
ちなみにイエス・キリストが生まれた当時のユダヤの土地では、1日というのは日没とともに始まって、翌日の日没までということになっていました。
なので12月24日の晩は、もう25日になっていることになります。
その名残りで、キリスト教会でクリスマスのミサや礼拝は、今の24日の晩と25日の朝に行われます。
25日の晩は、もうクリスマスは終わっちゃってるので、普通は何もやりません。
クリスマスパーティーも、うるさいことを言えばイブの晩餐にするか、あるいは25日の午餐にやるのが正しいわけですが...
アメリカや日本のクリスマスみたいにただの商業主義のお祭りと化しているなら、そこはどうでもいいのだと思います。
それにしても80年代から90年代ごろ、我々が若かったころのクリスマスはひどかったですね、今から考えれば。
カップルで無理やりたっかいフランス料理だのイタメシだの食べて(その割に大して美味くない)…
たっかいプレゼント買って、たっかいシティホテル泊まって、一晩で10万円以上使う。
それが出来ない者は「クリぼっち」として負け組、だというね。
聖夜ならぬ性夜だ、とも。
見栄と物欲と性欲にまみれた日。
商業主義に追いたてられて。
当時と比べたら今どきはまだいくらか落ち着いた…のでしょうか。
現代の若者は、そこまで見栄張ったりめちゃくちゃな消費したりする金銭的余裕がないだけかも、ですけど。
で、教会のミサですけど、私の所属教会の主任司祭(もうだいぶ長い間変わってない)の説教が...
偽善的でご都合主義で権威主義的で、イライラするばかり。
早く終わらないかなと思うほど。
ならそんな教会行かなければいいのにと言われれば、その通りなんですけれどね。もう惰性です。
昔の主任司祭の中には、とても良い話をする人が複数いたんですけど。
クリスマスというものがあって、いまだにそれを祝うことにも、意味はあるなと思わせられたものです。
12月25日がイエス・キリストの誕生日では、おそらくないであろうとわかっていても。
>実際は、紀元前4~6年の間の、夏の時期だという説が有力です。
>今のクリスマスの日付は、キリスト教が国教となって以後のローマ人が、中世初期までヨーロッパの北部、西部に住んでいた非キリスト教徒の人々を改宗しやすくさせるために…
>北西部のヨーロッパ人がもともと祝っていた、冬至が過ぎて春が近づくのを祝ったお祭りの日に合わせて「降誕祭」としたものです。
とにかく、クリスマスの物語のギミックの中で一番意味があるものは、イエスが産まれたのは、不潔な家畜小屋の中であったということ。
普通ならば柔らかな寝床に寝かされるべき、産まれたての赤ちゃんイエスが寝かされたのは、動物の餌を入れる箱だったということ。
そのときマリアとヨセフ夫婦は旅人(即ちよそ者)で、ベツレヘム(ベトレム)の街には、彼らが泊まれるところがどこもなかったということ。
イエスは貧しく、不安定な立場で、街にいた一般の人々から「外に追いやられた」夫婦の子。
そして産まれたばかりのイエスを、最初に見ることになったのは、これも当時は差別されていた職業の羊飼いたちだったということ。
「神の子」イエスがこの世に現れた場面を福音書があえてこんな風に描いたのには、もちろん大きな意味があったはずです。
それは「尊いもの」「皆の救いとなるもの」は、社会のすみに追いやられ、不可視化され、敬遠、あるいは軽蔑されがちな、マイノリティの中に宿る、というメッセージだったのだと私は思います。
それを毎年、年が移り変わる時期に改めて噛みしめ、再確認すること。
そうしたマイノリティの人々への愛と敬意を取り戻す機会とすること。
そこにクリスマスの意味がある...はずなのです、本当は。
そんなことが忘れ果てられて、クリスマスは本来あるべきところから、もうずいぶん遠く離れてしまいましたが。
ということで、教会から帰って来てから、妻とささやかにお祝い。
もう息子も独立してしまったので、クリスマスツリーはもちろん、プレゼーピオと呼ばれる「馬小屋」の場面をかたどったお人形を飾ることもありませんでしたが。
それにしても、クリスマスの食べ物も高くなりましたね。
ケーキなんて以前の1.5倍くらいの値段になった印象。
ぐるぐる回って、一番安いやつを選んで買いました。多分工場で、機械を使って大量生産したやつ。しかも一番ちっちゃいの。
ほんとは街のケーキやさんで買って応援したいけど、手作りのものは買える値段じゃなくて。
ケーキ…お米と同じくらいの値上がり率かも?
みんなの収入も1.5倍になれば問題ないのでしょうけれど、そうはなってないのでね。
どんどん貧しくなります。我々一般の日本人は。
イエス・キリストみたいに、社会のメインストリームからはじかれた立場の人々なんて、ましてやです。
困窮した者同士助け合う...でもなく、男はスマホアプリで見つけた暴力犯罪の手先の口をバイト感覚でやり、女は繁華街の片隅や都会の公園で「立ちんぼ」をして春をひさぐ。
いつの間にか貧困国と同じようなことになっていても「自分と家族さえ無事ならOK」で、自己責任だ、そういう人間はもともとクズなんだ、で済ませてる。
来年のクリスマスは、どうなっているのやら。