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エクレアのあのねのね

大と為せば、以って大と為すに足らず

















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子供が切れる。を考える。

2006年10月06日 12時09分20秒 | 社会経済の20
最近切れる子供が多いとニュースや新聞で問題視されている。
切れる子供の原因はストレスや睡眠不足、偏食など多岐に原因が指摘されているが一体どれが本当のところなんだろうね。

昭和を幼少の時代としてすごした、現在大人をやっている人間からは何故に子供が切れるのかさっぱり分からない。少なくとも私には分からない。理解が出来ない。

つまりこうだ。
私は子供の頃、親が怖かった。「巨人の星」の星一徹ばりに、茶碗やグラスが頭の上を毎日通過しているからではない。それは日常茶飯事でそんなものには慣れが出来る。だから怖くはない。
そんな父親はしょっちゅう母親に手を上げていたけれど、子供には一切手を上げたことがない。私の兄弟も多分誰一人父親に手を挙げられたことはない。
だから殴られるなんて恐怖はこれっぽちもない。でも怖かった。良くも悪くも父親の威厳だね。

殴られていた母はいい迷惑だったけど、子供は体を通して感じるものがあったわけで、子供の教育には確実に役に立っていたのだから全てが決して間違いとは言い切れない。
良い教育方法ではないにしても子供はそれほどゆがまずに成長しているわけで、今となればそのどれもが間違いだとは思っていない。

確かに特異なパターンの教育だし、例外的で薦められる教育方針でもない。でも殴られもしないでまっすぐに成長する子供は私から見れば異常で、悪いことをすれば修正される(鉄拳の場合も含まれる)べきだと思っている。

子供なんざ権利ばかり主張して義務は履行しないんだ。だからほしいものは簡単には手に入らない悔しさを味合わせて、願望をを手に入れるにはどうすれば良いのかを学ばせるほうが大人への近道になる。自立心を学ばせることが大事。方法は私のようなケースも含め多様であるほうがいい。それは個性につながるからね。

今の子供たちなら、恐怖感はストレスという一言で表現されるのかもしれないが私はそれがストレスと感じることはなかった。だから切れて父親や母親に暴力なんて考えられないし何故そうなるのか理解が出来ない。

昔は子供がお金を自由に使えるなんてことはなくて、当たり前だけど子供が欲しいと思ってもそれを買い与えてもらえることは殆どなかった。

何もないなら想像したり創造したりする。その辺に落ちている棒っきれだってチャンバラの道具になるし。そうした想像力はボキャブラリーになる。今を構築している私の一部になっているとも考えられる。

何もなければ考えるというスキルが身に付く。本が想像力を働かせるのにいいのと同じ。

視覚から入る情報は情報処理の60㌫以上を占めるのでテレビやそれに準ずるゲームのような視覚情報を駆使するものは想像力の発育に弊害が出ることは容易に想像できる。

想像力が発育せず、思考が単純化するからデジタルのような0か1かの判定になる。真ん中がない。嫌なら切れるし、良いものは全部良い。こんなところだろうな。

有り余る物社会の弊害と諦めてしまうわけにはいかず、結局は根気良く対応する以外ないのだけど、肝心の教育者のスキルもレベルも低いので本当に悪のスパイラルに陥っている。

日本のものづくりレベルの低下は熟練工を切り捨てた弊害とも言われているがこれは教育の現場でも当てはまると思う。

すべてにおいてだけど物事の単純化はよくない。犯罪には厳罰というのも同じで悪ければ罪を重くするというのはあまりにもお粗末な発想だと気が付かないといけない。

子供が切れないようにするには忙しくすること。
私たちの子供の頃は「切れる」なんてそんな余計な考えを生み出す時間がなかった。農家をやっている家庭なら学校から帰れば家の手伝いが当たり前だし、サラリーマンの家庭といえど家のお手伝いは当たり前だった。子供が自分のことだけをしていて暮らせるような裕福な家庭はごくわずかだったんだね。

帰って友達と遊びに行きたければとにかく家の用事をとっとと済ませないといけなかったし、そうするには色々と考えないといけない。効率化を子供なりに考えるんだね。だから本当に忙しかった。棒っ切れをチャンバラに使うのかおままごとに使うのかも発想次第。考えないといけない。切れてる暇なんて・・・生きることに汲々としていたというか・・・おかげで色んなものを知るには成長が必要だったし、それこそ世界の広がりは移動手段に準じて少しずつ広がっていった。

歩くうちは歩ける範囲の世界。自転車に乗るようになれば自転車でいける範囲の世界。バイクや車に載れるようになればそれに準じた世界。
未来は少しずつ広がり丘の向こうに何があるのかを知るにはとても時間が必要で、それは「夢」とか「希望」という言葉にもつながった。

今の子供のようにパソコンをつければいきなり世界。旅行といえば海外では足元なんて見えるはずがない。贅沢は敵とはよく言ったものだね。

塾なんかで忙しくするのではなくもっと違う忙しさが子供の「切れる」を救うのでは?と勝手ながら結論にしたいと思う私です。

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