エクレアのあのねのね

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3億円賠償の代償2(全2回)

2006年10月05日 12時40分00秒 | 社会経済の20
裁判所の仕事は判決を言い渡すところまでということ。
実際の支払いが行われることは想定していないということ。支払いの義務と受け取りの義務を認定しているだけで履行が行われるかどうかは裁判所の範疇に無いということ。支払いをしない場合の罰も当然無い。

つまり3億円支払いなさいの判決に対し、無い袖は触れぬと支払いをしなくとも法的にそれ以上の厳罰は無いということ。もちろん裁判所は支払う義務を認めているので財産の差し押さえ等をするがそこまで親族がたとえ大金持ちでも成人であれば親族に罪は及ばないし支払う義務も発生しない。

本人が職業に従事していても給料の差し押さえは全額ではない。加害者の生きる権利を侵害することは許されず、給料の差し押さえも確か半分程度しか出来ない。

例えば家財一切合財を差し押さえた上、給料の半分を差し押さえて幾らになろうか?30万の月給をもらってたとして15万の差し押さえ。

加害者は3億円を支払うまで責務を負い続けるが40年働いても7200万。働けど働けど楽にならない暮らしにそこまで続く悲壮感に耐えられなくなる加害者は確実に飛ぶ。自殺もあれば失踪もある。破産宣告もある。

どの道3億円という金額は紙の上の金額で支払われることは絶対にない。

被害者から見ればそれだけの被害を受けていて、加害者がそれぐらいの苦しみを受けるのは当然と思うかもしれない。いや当然だろう。

でも人間は弱くないにしても強くはない。自分に置き換えて考えて欲しい。
あなたが毎月一生懸命に働いた汗と血の結晶の給料を毎月半分持って行かれる。あなたはどうだろうか?給料100万もらっている人間ならそれが半分になっても耐えられるかもしれない。しかし年収400万の世帯でその半分が慰謝料として消え、残り半分には400万円分の税金がかかる。これが一生続く。あなたは一生貧困と罪の呪縛から逃れられることなく人生を終える。

これを履行することは終身刑に等しく、自由社会の下でこれだけ強い精神力を維持することはおそらく出来る人はいないと思う。少なくとも私には無理だ。

そのために裁判所は和解という案を提案することがある。
つまり紙の上の判決(プライド)と実利(妥協)のどちらをとるかという判断をしなさいと和解案を提示してくるわけだ。

具体的に言うと犯罪に対し裁判所は1億の慰謝料を認めることが出来ます。しかしながらどう考えても加害者側にそれを支払う能力がありません。それでも今なら罪の意識が高いので親族を含め今の経済であらゆるものを担保に入れたりすれば2000万は用意できるといっている。どちらにしますか?と。
2000万あればそれなりの運用なり貯金なりが出来るので利息を含めた運用で利益も出ますよと。1億となれば分割です。毎月15万毎月支払われるとも限らないお金を当てにしても紙の上の判決をとりますか?あなた次第です。

と、こんな具合のやり取りが行われます。これが和解案。

民事裁判経験者の私は(こんな金額ではないよ)和解に応じました。
民事裁判は期間が長く、私の場合3年も裁判していて神経が参っていました。(裁判の非が近づくと慢性胃炎がひどくなりものもろくに食べられなくなる)
こちらに全く非が無いことを裁判所が認定して上で全面勝訴も出来るよとのお墨付きをもらいながらも、私は結局和解に応じた。
紙の上より実利を取ったのは過去に対する清算という意味合いもあったのは間違いない。

今回の判決をかわいそうと思ったのはこういう経緯を知っているから。
裁判所はおそらく和解案の提示もしているはずで(双方の弁護士、裁判官の三者間である程度話を詰めるのが普通。裁判所は仲介しているといってもいい)今回こういう高額の判決を言い渡したのは被害者側が実利を取らずプライドを優先させたからに他ならない。

数字だけが一人歩きして「3億円か?ええなぁ・・・」なんて思っている人がいれば大間違い。おそらくプライドを優先させた家族はこの10分の一も回収することは無いだろう。まして加害者は今もって塀の中。3億円の代償はあまりにも痛い。

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