白い花の唄

笛吹カトリ(karicobo)の日記、一次創作SF小説『神隠しの惑星』と『星の杜観察日記』のブログです。

204. クマのゲリラ

2014年05月22日 00時50分34秒 | 神々の庭園
F.D.2548


 サクヤが温室のカウチでうたたねをしている。
「サクヤ、風邪ひくよ。寝るならベッドに行きな」エクルーが声をかけた。

 何かつぶやきながら、サクヤは顔の横に投げ出した腕を動かした。片方の手を軽く曲げ、指をそっとくちびるにあてている。
 赤ん坊のように無防備に見えて、エクルーの胸がズキンと痛んだ。

 しまった。近頃、こうした不覚を取ることが多くなった。14になって、首すじや手足がほっそりと伸びてきて、声が落ち着いた深みを持つようになった。真っすぐな黒い髪を肩まで伸ばしている。その髪をかき上げたり、エクルーの方を見上げたり、クツに足を通したりする時の何気ないしぐさに、いろいろ胸が痛んで厄介だ。
「まったく、いつまでも赤ん坊だな」
 思いとは裏はらなことをつぶやいて、サクヤを抱き上げた。こうして抱いた時、昔は胸の中にすっぽり入ったのに、今は頭が肩のすぐ下までくるし、片方の胸からしなやかな足が下がる。
 首すじからフルーツのバスソルトとミルクと何か甘い香りが漂うのを努めて意識しないように顔をこわばらせて、サクヤを寝室に運んだ。

 ダイニングを通った時、キジローがサクヤに贈った大きな黒いクマのぬいぐるみがぽつんと一人でテーブルについているのに気がついた。
 クマの左手の前にバーボンのグラスがある。置いてから、時間がたったのだろう。中の氷がすっかり溶けてグラスの下に小さな水たまりができていた。

 エクルーはちょっと立ち止まって、クマを観察していた。するとサクヤが目を閉じたまま静かな口調で言った。
「ルールなんでしょう?」
「えっ?」エクルーが聞き返した。
「あなたが言ったのよ。女の子を抱っこしてベッドに運ぶ。白いネグリジェ。クマのぬいぐるみは禁止。初めての夜のルールだって」

 エクルーは一瞬、頭が真っ白になってサクヤを取り落としそうになった。
「私、また、エクルーをいじめてる?」
 まだ目を閉じたまま聞く。
 からかう口調ではない。落ち着いた声だ。それで我に返って答えた。
「ああ、このうえなくね。君はホントに俺をいじめるのが上手だよ」
 そう言いながら寝室に入って、てきぱきとサクヤをベッドに入れて、毛布とキルトでくるんだ。
「だって5年経ったわ。正確には5.36年よ。アイスクリームとチョコレートは解禁になったんじゃないの?」
 サクヤは今度はぱっちり目を開けて聞いた。
「それはよりけりだ」
「何によりけりなの?」
「個々人の発達状態だ」
「つまり、まだ私は未発達でそそられないって言うのね」
 サクヤがため息をついた。

 エクルーもふーっと長いため息をついた。
 すぐ立ち去るというプランAをあきらめて、プランBに移る。説得だ。いすを後ろ向きにベッドの横に引き寄せてまたぐと、いすの背に両腕を預けて座った。普通に座るより安全な気がするからだ。
「俺はね、まだ蝶になってないサナギをこじ開けるようなマネをしたくないんだよ」
 サクヤが顔をしかめた。
「もう少しグロテスクでない例えはできなかったの?」
「言い直してもいい。生物学実験でつぼみをメスで解剖して、これがめしべでこれがおしべとステンレスのトレイに並べるようなマネだ。実際、グロテスクな話なんだよ。その花はもう開くことはない。損なわれてしまうんだ、永久に」
 サクヤは身体を起こして、曲げたひざに上体を寄せて丸まった。そうしてエクルーをじっと見つめた。
「アルがね、エクルーは成人で責任があるから、まず自分から口説いてこないだろうと言ったの。だから、こうして私から歩み寄ったのに」
 エクルーは再び長いため息をついた。
「さすがアル、するどい洞察力だ。だが君は2つ間違いをおかしてる」
「何?」
「まずアルに相談したこと。第2にこれは歩み寄ったと言わない。ゲリラ攻撃だ」
「だって他に誰に相談するの? スオミはいさめるだろうし、メイリンかイリスだと無責任にあおるだけだろうし、ジンだったら……」

 サクヤが相談を持ちかけた時のジンの反応を想像して、エクルーはつい吹き出してしまった。
 今度はふうと短くため息をついて身体を起こした。
「寝たフリだったんだな。眠くなさそうだ。何か飲み物を作ってくる」
「ホットミルクだったら要らないわ。子供扱いしないで」
「ほう。大人な君は何が飲みたいんだ?」
「コーヒー」
「却下。眠れなくなる」
「じゃ、ペヨの赤いお酒」
「ふむ。いいかもしれない。レモンを垂らしてカクテルを作ってやるよ」と立ち上がった。
 ドアのところで振り返って、エクルーが言った。
「サクヤ、知ってるかい? 子供扱いするなと怒るのは子供だけだ」
「知らない! もう!」

 エクルーは片手に赤いロンググラスが3つのったトレイ、片手に黒いクマを持って寝室に戻って来た。
「どうしてグランパのクマ……」とサクヤが言いかけた。
「だってかわいそうだろ。あんな室温のバーボン持って、一人でうなだれてるなんて。カクテル・パーティーに入れてやろうぜ」
「つまり……」
「そう。つまり俺はあんなゲリラ攻撃に屈するつもりはない。ちゃんと交渉して相互理解を深めるよう要請する」
 サクヤはため息をついて、エクルーが差し出したグラスを受け取って一口飲んだ。
「うえ、甘い。ソーダばかりでお酒の味しない。自分のだけジンを垂らして」
「いい鼻だ。俺とキジローは飲酒年齢だ。未成年に酒を飲ましたとばれれば、本当はこれだけで俺は逮捕されるんだぜ。ましてや……」
「ましてや何?」
「忘れてくれ。これ以上いじめるなら、おれはジンのとこに家出するぞ」
「行き先を告げてから行く家出なんてあるかしら」
「本当に君は口が減らないな」
「先生がいいもの」

 2人とも同時に笑い出して、空気がゆるんだ。クマが戻って来て作戦中止になったことで、本当はサクヤもほっとしたのだ。
 キジローの分のグラスに取りかかりながら、エクルーが脅すように言った。
「しかし、サクヤ、アルだったからいいけど、そんな相談を男に持ちかけたら、ベッドに連れ込んでいいサインだと誤解されるぞ」
「それはプランBよ」サクヤは冷静な口調で言った。
「プランB?」
「このままいつまでもエクルーが歩み寄ってくれないなら、大学で私にモーションかけてきてる男の子たちの1人に相談する。きっと彼は、冷酷なオジサンに囲われてる私に同情したフリをして、私に短期集中実習をしてくれるわ。そうすれば、私は交渉を有利にする技術を覚えることができ……」

 エクルーががしゃんとグラスをトレイに置いた。
「冗談だろう?」
 サクヤはあくまで冷静に言った。
「冗談じゃないわ。他にどうしろと言うの?」
 頭が真っ白になって、エクルーはサクヤに飛びかかった。
「そんなウスノロに頼むくらいなら、俺がその実習とやらをしてやる。今ここで」
 サクヤの両腕を押さえつけて、キスをした。

 叫び声を上げようと口を開けていたサクヤは、舌が入ってきたのでびっくりした。もがいて逃れようとしても、エクルーの重い身体にがっちり押さえ込まれていて身じろぎもできない。
 エクルーはくちびるを離して、今度は首すじに口を押し当てた。甘い香りに目まいがする。

 サクヤがガタガタ震えながら、涙を流しているのに気がついて、エクルーは全身がさあっと冷たくなった。
 スカートがたくしあげられて、太ももまで見えているし、えりが引き下げられて白い胸元がむき出しになっていた。

 はじかれたように身体をベッドから起こして、部屋から飛び出していった。
 しばらくして戻ってきたエクルーは、クローゼットを開けてサクヤの旅行カバンに着替えを詰め込んだ。
 カバンとサクヤのコート、ブーツを抱えて出て行ったと思うと、すぐ戻って来て、サクヤを毛布でくるむと抱き上げた。足早にハンガーに入ってヨットの後部座席にサクヤを放り込んだ。

 ヨットがドームを離れると、まだ歯をカチカチ鳴らしながら、サクヤが聞いた。
「ど……どこへ行くの?」
「アルに電話した。君をスオミの診療所に連れて行く。君にはシェルターが必要だ。君は俺から避難する必要がある。少なくとも1週間は帰ってくるな。また怒り狂った俺に襲われるからな」
 初めて聞く突き放した言い方に、サクヤはぞっとした。
「それとも今から派出所に行きたいか? 俺は大人しく証言するぜ? 君はしかるべく施設に保護されて、俺は2度とサクヤの10m以内に近づくなと禁止命令を受ける。いや、刑務所か、もしかすると精神病棟にブチ込まれるかもしれない」
「やめて……」
「イカれたことばっかり言ってるからな。石の力だのミヅチだの、元恋人の子供として生まれ変わってきただの……」
「やめて!」
「18で博士号取るような、半端な秀才は抑圧されて精神のバランスを失った、とかもっともらしいことをカルテに書かれて……」
「やめて、やめて、やめて!!」

 エクルーは思い切り逆噴射をかけた。ヨットは2回転半してななめに地面につっこんだ。
 土ボコリがおさまって静まり返ったヨットの中でサクヤが泣きながら訴えた。
「エクルーは悪くない! 悪いのは私なの」
「ああ、君の勝ちだ。おめでとう。プランB、見事に成功。気分いいだろう」
 そう言い放つと、エクルーは操縦貫につっぷした。
「……狂った方がマシだ。君を傷つけてしまった。君は損なわれてしまった。もう君の花は咲かない! 俺はその花を見られない! 俺は何もかも失った!」

 悲痛な叫びに頭をなぐられたようなショックを受けた。”違う! 私はそんなに弱くない!”と叫びたいのに、のどに大きな氷の塊が入っているように言葉が出てこない。
 身体の震えが止まらない。涙が止まらない。

 エクルーは再びヨットを発進させると、黙りこくって診療所を目指した。
 トレーラーの外に出て待っていたスオミにサクヤを預け、「どうしたっていうんだ?」と聞くアルに着替え一式を渡した。
「迷惑かけてすまない。他の荷物もまとめておく。サクヤをよろしく頼む」
 そう言い残すと、後も見ずに傷だらけ泥だらけのヨットで去った。サクヤは泣き崩れて地面にへたり込んだ。

 一瞬で何もかも失った。2度と取り戻せない。永久に。


「エクルーが来た!」
 泣きはらした赤くはれた目で、サクヤがベッドから転がり出て来た。
「エクルー来たでしょう? ヨットの音がしたの。あの音はエクルーのヨット……」
 うわ言のように言いながら、トレーラーから飛び出して、立ち尽くした。確かにエクルーのヨットがトレーラーの前に止まっていた。

 運転席は空っぽだった。そして運転席以外の全てのスペース、屋根のボックスから後ろにひいたコンテナまで、ぎっしりときちんと仕分けして梱包されたサクヤの荷物がつまっていた。
 ナビゲーター・シートに無表情に座った黒いクマのぬいぐるみを見て、再び涙がこみ上げてきた。

 つまりエクルーは本気なのだ。本気でサクヤから離れようとしている。サクヤを守るために。
 トレーラーから出て来たアルが、ヨットの荷物を見てつぶやいた。
「ふーん。こりゃ徹底的だな。いや、偏執的か? けっこう思いつめるタイプだったんだねえ」
「アル! アルのヨット出して! 私、ドームに戻る! エクルーにあやまらなきゃ……2度と会えなくなっちゃう!」
 取りすがってなくサクヤを抱き上げて、アルはトレーラーの中に入った。
「まあ落ち着いて。ドームは俺が見てくるから。サクヤは着替えて、顔洗って、朝メシを食っておくこと。そんなはれたお化けみたいな顔で追っかけても、ヤツはますます逃げるだけだ。わかった?」
「……わかった。ありがとう。」
「昨夜のうちにメイリンにメールを打っておいた。あいつがウイグルに現れたら、こっそり知らせてくれることになってる。安心しろ。あいつは間違っても首吊るタイプじゃないから」
 サクヤが悲鳴を上げたのでスオミがしかりつけた。
「アル! あなたが怯えさせてどうするの! 早くドーム見てきて。向こうについたら電話ちょうだい」
「了解。あとは頼んだ」

 アルはヨットで出て行った。
「さあ、あなたは着替えて。風邪ひくわ。それとももう少し寝る?」
「眠れない。涙が止まらないの。エクルーに会いたい。今すぐ謝りたい……」
 子供のように泣きじゃくるサクヤを、スオミはぎゅうっと抱きしめた。
「私がバカだったの。エクルーは悪くないの。信じて」
「信じるわ。あなたたち2人とも悪くない。ただ若くて、ちょっとオロカなだけよ。そして2人ともお互いがすごく大事で失いたくないのよね? だからそんな事しちゃったんでしょう?」

 サクヤは泣き止んで、スオミの顔を見上げた。まだひっくひっくとしゃっくりは止まっていない。
「あなたはまだエクルーが好きで離れたくないんでしょう? だったら大丈夫。エクルーもきっと同じ気持ちよ。とにかく2人とも頭を冷やさないと、ね? 今の勢いでぶつかったら、またケンカしちゃうわよ? さ、着替えて。アルから連絡があったらすぐ動けるようにしておきましょう」

 サクヤは着替えて、カモミールティーとスコーンを前にテーブルについていたが、何を食べる気にもなれなかった。
 電話が鳴った時、はねるようにテーブルを立った。スオミは指を口にあてて、しーっと言うとスピーカーボタンを押した。
「アルだ。ドームは空っぽだ。セバスチャンもエクルーがどこに行ったか知らないらしい。ジンのとこにも行ってない。これからグレンのとこ回ってみる。サクヤは? 落ち着いた?」
「横に立ってる。まだ泣いてるわ」
「サクヤ、落ち着け。とにかくあいつの寄りそうな所を回ってみるから。宙港のエライ人に頼んで、ヤツに離陸許可を出さないように管制に指示を出してもらった。とりあえず、テトラもタケミナカタもハンガーにあったし、朝イチのシャトルの乗客名簿にヤツの名前はない。捕まえるのは時間の問題だ。ちゃんと朝メシ食えよ。スオミ、頼んだよ」
「わかった。ありがとう。気をつけてね」
 スオミが電話を切った。

「エクルーいるよ?」
 振り返ると、パジャマ姿のフレイヤが台所に出てきていた。まだ寝ボケまなこだ。
「えっ?」サクヤとスオミがびっくりした。
「エクルー探してるんでしょ? いるよ?」
「どこに? フレイヤ、教えて。連れてって。エクルーに会いたいの。会わなきゃいけないの。どこ?」
 フレイヤは眠気のふっとんだ顔でにいっと笑うと、「行こ」とサクヤの手をとって消えた。

 スオミは真っ青になって、アルを呼んだ。
(フレイヤがサクヤと消えちゃったの! エクルーがどこにいるかわかるってフレイヤが言い出して、2人で飛んで……!)
 切迫したテレパシーの強さに、アルは頭がガンガンした。
(スオミ、落ち着け。君までパニックになるな。深呼吸して。ほら。ゆっくり息を吸って、吐く。もう一度、吸って、吐いて……落ち着いた?)
(……ええ。少し)

「どことは言わなかったんだな?」
 アルがスオミの横にすっと現れた。
「ヨットは捨ててきた。フレイヤが一緒ならエクルーは見つけやすい。大丈夫。今回はシャマーリの代わりに俺が平手張ってやるよ。サクヤばかりかスオミまで泣かせたんだからな」
「私は泣いてないわ」
「泣いてるよ。見てみろ、その泣きベソ顔」
 アルがスオミの濡れたほおにキスをした。抱き寄せてすっぽりスオミの身体を包む。
「大丈夫。すぐ見つかるさ。後でガキ共3人におしおきしてやろう。悪いけど俺はちょっとわくわくしてるよ。こんな大きな捕り物、久しぶりだ」
 スオミはアルの鼻をぎゅっとひねった。
「よくこの状況で楽しめるわね」
「フレイヤを信じてるから。君もだろう?」
「……ええ。そうね。信じてる」
 スオミはやっと微笑んだ。
「そうだわ。私、フレイヤもエクルーのことも信じてる。きっと大丈夫ね」
「おっ、やっと奥さんの心配性が治ったぞ。おめでとう」


 サクヤは身体の真ん中に痛むような冷たさを感じていた。真っ黒で冷たい。
 ここはどこだろう? エクルーはどこにいるの?
 真っ暗な空間が突然、さざめく青い小さな星々に照らされた。
(ココダヨ! ココニクレバイイ!)

「サクヤ!」
 フレイヤにぎゅっと腕をつかまれて我に返った。手をつないで3度ほどテレポートしながら、フレイヤはキョロキョロした。
「おかしいな。この近くなんだけど、入り口が見つからない。サクヤのパパ、どこにいるの?」
「私のパパ?」
 問い返しながら振り返ってサクヤはびっくりした。3つ子の巨人!
「エクルーはパパといるの?」
「あ、そのイメージ……わかった! 北から流れに乗って入るのね、青い星を目印に。行こ!」
 フレイヤはサクヤの手を取ってまた飛んだ。

 またここに来ることになるなんて……。
 大学から休みで帰ってくる度に、この3つ子の真ん中に来てはパパに報告していた。といっても、いろいろ思い出しながら岩場のブッシュを散歩して、時々、1人でくすくす思い出し笑いをするだけだ。
(フレイヤやエクルーだったらこうしていてもパパと話せるんだろうな)と少しうらやましかった。
 でもこんなのも好き。エクルーが岩陰で昼ごはんを作っている間、花や鳥を探し歩きながら頭の中でパパに話しかける。時々エクルーの方を振り向いて微笑む。振り返ると、必ずエクルーはこっちを見ていた。

 それだけであんなに幸せだったのに。いつの間に私はこんなに欲張りになっていたんだろう。
 欲張って……全てを無くした。いや、まだ失ってない。エクルーを見つける。絶対に。

「ここからどうするかわかる?」北側の泉の洞でフレイヤが言った。
「水の中を、流れにのって南に下るの。水路の底にパパのいる地底湖の入り口がある」
 手をつないでまたイメージを見せた。
「……わかった。でも、おまじないって?」
 サクヤは赤くなった。
「ああ……あの水の中でも息ができるように冷たくないようにフィールドを作ってもらったの」
「何だ。それじゃ手をつないでれば大丈夫。行こ!」
 フレイヤはためらいもなく水に飛び込んだ。

 何だか以前来た時と印象が違う。明るい……というか活気づいてる感じだ。フレイヤといるせいだろうか?
 北の泉の石で漂いながら、フレイヤは耳をすましている顔をしている。
「何だか人がいっぱいいる。子供がたくさん……笑ってる」
「笑ってる?」
「うん。歓声を上げて……ケンカの見物をしてる」
「ケンカ?」
「うん。サクヤのパパとエクルー。エクルーが負けてる」
 サクヤの血の気がさあっと引いた。
「行こう! 地底湖に。流れに乗って……入り口がせまいの。フレイヤ、顔ぶつけないでね。底に沈みながら下るわよ。表面は急流で飲まれちゃうから……」
 サクヤはフレイヤの手を引っぱって、水路の流れに飛び込んだ。

 何てことだろう。
 パパ、エクルーは悪くないの。私が悪いのよ。エクルーを責めないで……。
「あった、入り口はあそこよ! 青い光がもれてる。一度、穴の入り口につかまって止まるわよ。タイミングを合わせて、つるっと湖に入ろう」
「わかった」フレイヤがにこっと笑った。「行こ!」

 乱流から静かな地底湖にふわっと下りながら、サクヤは驚いてキョロキョロ見回した。以前の静謐な空間はない。ガヤガヤ、ワーワーと賑わって、まるでサーカスのテントのようだ。
”兄ちゃん、がんばれ。脇が甘いぞ”
”アズア、もういっぺん放り投げてやれ”

 ゆっくりと沈んで底が近づくにつれて、2人の姿が見えた。湖に横たわるアズアの身体の上に、エクルーが浮かんでいる。右腕でアズアの肩をつかんで、じっと漂っている。
 わあっと声が上がった。
”いいぞ、アズア。のしてやれ”
”そんなヒョロ長のっぽ、のしちゃえ”
”おっ、まだ向かってくぞ”
 歓声が上がるのに、二人はじっと動かない。
「どういうこと?」とサクヤはフレイヤに聞いた。
「うーんと……あ、そうだ。」フレイヤはつないでないもう片方の手を湖の壁に押しつけた。

 指のすぐ先に正八面体の青い石がある。
 突然視界が切り替わった。

 アズアがエクルーを壁に押さえつけて、えり首を締め上げている。
”情けないな。そうやってサクヤとケンカするたびにここに逃げ込んでくるつもりか”
”ケンカじゃない。次もない。俺はもうサクヤの傍にいられない”
 首を自由にしようと、アズアの腕に手をかけてもがく。アズアの上腕をひねると同時に足でアズアの下腹をけって自由になった。

 ブーブーと野次が飛ぶ。 アズアがすぐに壁をけって、エクルーに飛びかかると今度は組みしいて関節をひねった。
”おまえが守るというから、ボニーがお前を信頼しているというから任せたんだ。それを何だ。今頃リタイヤだと?”
 エクルーの顔は痛みに耐えて真っ赤になった。
”俺はもうダメだ。何度も言ったぞ。サクヤを傷つけてしまった。他の男に頼んでくれ”

「私は傷ついてないわ! パパ! エクルーを放して!」



 2人の方に向かおうとして、フレイヤの手を離したとたん、フィールドが切れた。
 息がつまる。冷たい水に心臓がぎゅうっとつかまれる。

 アズアはぱっとエクルーを離すと、サクヤの身体をつかまえた。
”お前が守れないというなら、私が守る。サクヤもこの湖の底で眠らせる”
 そう言うと、もがいているサクヤののどと口に手をあてて何かつぶやいた。ゴボゴボと息が大量にサクヤの口からもれて、くたんと力が抜けると、そのままサクヤの身体は底に沈んで壊れた人形のように岩の上でバウンドした。
”何をした!?”
”空気を抜いて眠らせた。これからは親子水いらずだ”
”サクヤ!”
 エクルーは湖底のサクヤの身体を抱き上げて息を吹き込んだ。空気はそのままぽかっと開けたサクヤの口からこぼれて、大きなあぶくになって水面に向かう。何度吹き込んでも入っていかない。
”ムダだ。おまえは一度手を離した。もう返さない。サクヤは私のものだ”
 アズアは石たちの青い光を全身に受けて魔王のように微笑んだ。
”このバカおやじ! それでも親か! サクヤ、頼む。目を開けてくれ。俺が悪かった。こんなことになるなんて”
 何度も息を吹き込んで身体をゆすぶるが、かくんかくんと頭をゆらして漂うばかり。青白く顔にまつげをふせた顔が、ぞっとするほど美しい。

”目を開けてくれ。頼む。俺を1人にしないでくれ。”
 頼りないサクヤの身体を抱きしめて泣いた。
”ずっとそばにいる。もう2度と手を離さない”
 その首に細い手がふわっと回された。
「うん。それならいい。そばにいて」
 驚いて身体を離すと、サクヤが目を開けて微笑んでいる。
「ごめんね。私がバカだったの。これからも一緒にいてくれる?」
 エクルーは言葉が出てこない。声も出ない。
 ただサクヤを抱きしめて、サクヤの胸に顔を埋めて声も出さずに泣いた。
「君はけっこうバカだな。すぐ地上に連れ出せば良かったんだよ。こんな水圧がかかった水中で人工呼吸してどうする。こんな男に娘を預けていいのか、ちょっと不安になってきたよ」
「パパ!」

 宝石たちがゲラゲラ笑っている。頭上でフレイヤがにいっと笑っているし、アルはにやにやしている。
 スオミは涙ぐんでいるようだが、涙はすぐに水に溶けた。
「仕方ないな。みんな君の味方らしい。残念だがもう一度チャンスをやろう。サクヤを返すよ。アル、こいつは私が山ほど殴っておいたから平手をはるのは別の機会にしてくれ」
 アズアはもう一度エクルーのえり首をつかむと、自分の顔の傍まで引き寄せた。
「だがサクヤに関しては、次の機会はない。次に君が手を離したら、サクヤはこの湖の底に閉じ込める。他の男に任すなんて考えるな。君しかいないよ、このじゃじゃ馬を任せられるのは」
 宝石たちがひゅーひゅー冷やかして拍手した。
「やれやれ、疲れたな。見てみろ。今の騒ぎで天井が壊れてしまった」
 地底湖の上から日の光が差し込んでいる。
「これからは北に回らなくても直接ここに飛び込める。サクヤ、またおしゃべりしに来てくれるだろう?」
「うん。パパ、ごめんね。一緒にここにいられなくて」
「いいさ。こんなに早く花嫁のパパの気分を味合わされるとはね。サクヤ、彼も若い盛りなんだから、あんまり刺激していじめてるんじゃないよ」
「うん、わかった。反省してる。でもパパ、エクルーのキスはすごいのよ?」
「反省してるように見えないな。さあ、みんな帰って、1人にさせてくれ。私は花嫁のパパの孤独をかみしめるんだから」

 ひとしきり、「ありがとう」とか「ごめんね」とかいう言葉を言い交わしてみんなが振り返ると、アズアは以前見た時のように目を閉じて湖の底で微笑んで漂っていた。
 あんなに明るく笑いさざめいていた空間が暗くなって、ただひと筋、新しく出来た洞の入り口から射す光が頭上を照らしている。
 サクヤはもう一度、アズアをぎゅっと抱きしめると、(ありがとう、パパ。また来るね。)とささやいた。

 地底湖のせまい入り口から外に出た一同は驚いた。もう水路の乱流にもまれることはない。
 水際が広がって丸い泉になっていた。泉の岸に下りる石段まで出来ていて、洞の入り口は明るいテラスになっている。
「108個めの泉が復活したな。おまえらの夫婦ゲンカのおかげだね」
 アルがエクルーの肩をどしんと叩いた。
「すごいな。あのどつき合いのパワーを全部こっちに送ってたんだ。どうりで消耗するはずだ。アズアをけとばしてるつもりで俺はずっと土木工事をしていたのか」
「私も。冷たい水に濡れておぼれたと思ったのに、服が乾いてる。パパってすごいのね」
「うん、サクヤのパパすごい。かっこいいわ。私、絶対、アズアのお嫁さんになる!」
 フレイヤの発言に全員ぞっとした。
「サクヤ、今度からパパに会いたい時、私に頼んで。いつでも連れてきてあげる」
「フレイヤ、許さんぞ。アズアは子持ちのやもめだ。お前といくつ違うと思ってる。第一、あんな湖を新居にする気か?」
 アルがわめいた。エクルーはため息ついて、アルの肩を叩いた。
「あきらめなよ。あの人とケンカする勇気あるか? 今度はパルテノン宮殿ができるぞ? 第一、6年ぶりに会ったのに全然年取ってない。フレイヤはすぐ追いつくさ。フレイヤ、あの引きこもりのおっさんを口説いて湖から引っぱり出せよ?」
「こら、あおるな」
「そうしたら私、フレイヤをママと呼ぶことになるの?」
 サクヤの素っとんきょうな叫びに思わず全員笑った。


「何だ。何事が起こったかと思ったら、まだベロチューしただけか」
「アル!」フレイヤ以外の全員が抗議した。
「だって俺はとっくにサクヤはもうエクルーのお手つきだと思ってたよ。さすが3000年待った男」
「アルったら」
 遅い昼食を食べながら、午後の日差しに輝く岩山を眺めていると明け方感じた絶望がウソのようだ。
「アズアは君に何を言ったんだい?」とエクルーが聞いた。
「えっ?」
「ほら、君が息を抜かれて底に沈む前さ。何か言ってたろ?」
「ああ」とサクヤは笑った。
「エクルーが降参するまで目を開けるなって」
「まったく君のパパって最高だね」とエクルーがため息をついた。
「俺はこんな親娘に翻弄されて、土木工事をしたうえ、今から引越し荷物の荷解きをしなきゃならない」
「まあ、あわてるな。サクヤはここにいるんだから。当分あちこちでからかわれるから覚悟しておけよ。ジンとグレンどころか宙港まで指名手配かけたからな」
 アルがにやにやした。
「アル、何て言って回ったの?」
「エクルーがサクヤとケンカして家出したって」
「アル!」サクヤが抗議した。
「でもその通りだろ?」
「確かにね」エクルーは手で顔をおおってため息をついた。
「私も一緒に謝って、からかわれてあげる」
 サクヤがエクルーのひざに座って、両腕をエクルーの肩に回した。
「2人で笑われよう?」
「2人で祝福されるんだ」
 そう言って、エクルーはサクヤのおでこにキスをした。それから、ぎゅっと抱きしめてサクヤの顔をのせた。
「ああ、もう一度こんな風に抱けると思わなかった。何もかも失ったと思った」
「ご両人。ラブ・シーンの続きは幼児のいないところでやってくれ」
 アルの言葉にフレイヤが講義した。
「私もう幼児じゃないわ。サクヤは8つでエクルーのフィアンセになったんでしょ? 私も8つでアズアと出会ったんだから、14でお手つきになる」
 アルは紅茶をむせた。
「お嬢さん、そういうことはアズアを落としてから言えよ」
「アル、あおってどうするの。知らないわよ」スオミがたしなめた。
「いいわ。今度から惑星中探し回らなくてすむ。フレイヤがいない時は、108個めの泉に行けばいいんだ」
 アルは少しのびをして両手を頭の後ろに組むと、エクルーに向かってニヤっと笑った。
「問題解決。めでたし、めでたし」

 ヨットでトレーラーを離れる前に、エクルーはお泊まりセットの入ったサクヤのバッグをスオミに預けた。
「多分また、この先もケンカすることがあると思う。たんびに引っ越し荷造りして、土木工事しなくてすむように、保険だ」
「いつでもどうぞ。サクヤは私達の大事な姪なんだから」
 スオミはかがんでサクヤのおでこにキスをした。
「フレイヤに、エクルーとのロマンスを話してやって」
 サクヤは少し赤くなった。
「そんなに話すことあるかしら」
「何いってるの? 出版したらベストセラーになるわよ? スペクタル・ロマンス・アドベンチャー」
 エクルーがげんなりした顔をした。
「姉さんて意外とミーハーだったんだな。まちがっても出版社に企画持ち込んで、ライター雇おうとか考えないでくれよ?」
「あら。どうしようかしら。私が書くという手もあるわね」
 スオミがにいっと笑った。
「うわっ、その顔フレイヤそっくり。さすが親子」
「おホメの言葉、ありがとう」スオミはすまして、寛大なしぐさで賛辞を受け入れた。
「ごめん。俺、今まで姉さんのこと誤解してたよ。しとやかとか控えめとか形容して悪かった」
「私こそ。あなたがティーンエイジャーを押し倒せる人だとおもわなかった。頼もしいわ。お見それいたしました」
「ちぇっ、サクヤ。早く帰って昨日の続きをしよう」
「ケンカの続き?」とスオミが追い討ちした。

 ドームに戻るヨットの中で、サクヤは大きなクマを抱っこして助手席でうとうとしていた。エクルーにクマごと抱き上げられて目を開けた。
「そのまま寝てな」
 ベッドに降ろされて、寝ぼけマナコでベッドの足元にはうと、くしゃくしゃになっていた毛布とベッドの下に落ちていたキルトをひっぱり上げて広げようとした。後ろでドサッと音がしたのでふり返ると、エクルーがベッドに斜めにつっ伏していた。もう寝息をたてている。サクヤは微笑んで、自分とクマとエクルーの上に、毛布とキルトをかけた。
 エクルーの寝顔を隣に見ながら寝るのは久しぶりだ。5年ぶりくらい? 眠れるかな……と思ったが、すぐにぐっすりと眠ってしまった。


 目を覚ますと、天窓から明かりが射し込んでいる。すぐ横で、エクルーがじっと自分を見つめているのに気がついた。
「おはよう。もう朝? よく眠れた? 元気になった?」
 サクヤは20㎝と離れてない所にあるエクルーの顔をじっと見つめて微笑んだ。
「また二人でドームに戻れてうれしい」
「俺も」
「ぎゅっとして?」
 エクルーが腕を背中に回してくれたがサクヤが期待したほど自分の身体は包まれなかった。
「小さい時にはエクルーの胸にすっぽり入れてもらえたのに。何というか……足とか肩がじゃま」
 サクヤはもぞもぞした。
「人間ってベッドの中で向かい合わせに抱き合えるように出来てないのね」
「まぁ色々方法はあるけど……とりあえず向こうに身体を向けてみて」
 サクヤが寝返りをうつと、エクルーが背中からすっぽり身体を包んでくれた。
「これでどう?」
「うん。温かい。安心する」
 同じような状況で、昔サクヤが同じ事を言ったのを思い出して、エクルーの目の奥が熱くなった。
 ひとめぐりして、またサクヤが俺の腕の中にいる。ただ一人の女性として。
「まだ早い。もうちょっと寝な」
「うん」

 しばらくしてサクヤが身じろぎした。
「眠れないの?」とエクルーが低い声で聞いた。
「うん。何だか目が覚めたら……恥ずかしくなってきちゃって……」
「そのうち、また慣れるさ」
 しかし、エクルーの左腕を枕に、右腕でお腹を包まれて横になっているのはすばらしい気分だった。
「エクルーも眠れないの?」
「うん。でもこうしてるのはいい気分だからそれでいいんだ」
「エクルー……」
「うん?」
「昨日の続きをして?」
 意味を取り違えたりしなかった。エクルーは顔が熱くなった。
「ええと……まぁ、のんびり行こうよ」
「私、またいじめちゃった? また避難しなくちゃいけない?」
「いや……そういうわけじゃなくて。好きなショコラティエの箱を見つけて、ついフタを開けたらトリュフ30コ入りで、自分のじゃないからずっと手を出さずにいたら食べていいよ。ただし今日中に、と急に言われた気分だ」
「どうしていつもアイスクリームやチョコレートを引き合いにするの?」
「君にわかりやすいように」
 すぐ耳元でエクルーの声が響くと、何だか身体中がむずむず震える気がする。
「今の例えはよくわからなかったわ。つまり?」
「つまり、大好物を目の前に見ながら、あんまり長いことがまんしたから、どこから手をつけていいかわからない」
「決まってるわ。ピスタチオの乗ったプラリネよ」
「俺の好みをよく知ってるね」
「どこからでもいい。好きな所から手をつければいいのよ」
「そうだな。どれもおいしいに決まってるもんな」
「しかも私はチョコじゃないから、溶けなくなったりしない。何度でもキスできるの。安心でしょ?」
「ははっ、全くかなわないよ」

 かなり長い間エクルーが動かなかったので、また眠ったのかしら、といぶかしんだ。それから首すじに温かい、柔かい感触がして身体中が震えた。
 思わず目を閉じる。つま先がぴくんとのびた。
 身体の一番奥の見た事もない所にぎゅっと力が入る。
 エクルーが耳のすぐ下にキスしながら低い声でささやいた。
「のんびり行こう。どうせ今日、てっぺんまで行けない。まずステップ1だ」
 急に身体中が熱くなった。エクルーに触れているところも触れていない所も。
 首すじも耳たぶも自分で触れたことがある。でもエクルーのくちびるで触れられると、まるで自分の身体がすっかり違うものに作り変えられたようだ。
「イヤだったり、気持ち悪かったりしたら言って。すぐやめるから」
 言葉が出てこなくて、一生懸命うなずいた。
 上になったエクルーの右腕がそっと動いてひざをやさしくなでている。
 ゆっくり移動して手が太ももの内側にくる。そしてまた外側に戻って、なめらかに脇腹まですべって、またお腹に帰ってきた。
 身体中が震えてどうしていいのか、どうしたいのかわからない。
「ゆっくり息をして。ほら息を吸って……吐いて。深呼吸するんだ。発作を起こしそうだよ。やめる?」
「ううん、やめないで」
「だったら息を吸うんだ」
 必死で集中して深呼吸をした。2,3度くり返して、つばをごくりと飲む。のどがガラガラで痛いほどだ。
 エクルーの手がそっとお腹からすべって胸の下にきた。そこでじっとしている。
「ずっと触れたかった。君のすべすべな所も、内側の柔かい所も。どんな風に君に触れようが、ずっと考えてた。想像していたより1000倍いい」
「ただ触れてるだけで……気持ちいいの?」
「君は?」
「気持ちいいわ」
「俺も」
 エクルーの手が胸をそっと包む。左、それから右。指は動かさずに、ただ体温と感触をじっと味わっているようだ。
 右手がまたそっとすべってひざに戻る。今度は下になっていた左腕が胸の下にくる。服の上からでもエクルーの手の熱さが伝わってくる。
 身体がふるえて、自分のものじゃないみたい。両方の太ももをぎゅっとくっつけて首をそらせた。
 どうしてそうしたかわからない。自然にそうなったのだ。
 自分が泣いているのに気がついた。
「こわい?」
「ううん……うん、少しこわい。どうなっちゃうの?」
「少しずつ変わる」
「変わるとどうなるの?」
「つぼみが花開いて、二人で銀河を見れる」
「それはステップ20くらい?」
「いや120かな」
 そう言いながら両腕で私の胸を包んでいる。
「……遠い道のりね」
「だからのんびり行こう。……こっち向いて?」
 何とか震えている自分を励まして、身体の向きを変えた。
「さあ、昨日の続きだ」
 エクルーがそっとキスしてくれた。くちびるがやわらかく開く。甘い。また身体の芯がふるえた。
「今日はここまで。もう少し寝よう」
 身体の感覚が過敏になっていて、とても眠れないと思ったけれど、やさしくエクルーの腕に包まれてぐったりと胸に頭をのせているうちに、少しずつ呼吸が治まってきた。
「何だか溶けかけたキャンディーになった気分」
「それはいい気分?」
「ええ、すごく」
 それからエクルーが息を飲んだのに気がついた。
「どうしたの?」
「キジローにキスしてるところを見られた。夢中になって忘れてた。くそっ、くそっ」
 エクルーは枕に頭をぶつけてうめいた。2人のすぐ横にベッドにうつぶせになって、枕に顔を埋めて大きなツキノワグマのぬいぐるみがあった。
「グラン・パは喜んでくれるわよ」
 サクヤがなぐさめた。
「怒るとは思ってないけど……照れくさいだけだ」
「じゃあ、クマは解禁?」
「いや、今日はステップ1だ。服も脱がずに抱き合っただけだ。次はそうはいかない」
「じゃグラン・パには温室のカウチで寝てもらうわ。大きなサクヤの夢を見られるように」
「そうしてくれ」とエクルーが枕にくぐもった声でうめいた。

 エクルーはあわてなかった。
 自分は上半身だけ脱いで、腰より下は見せも触らせもしない。
 2人ともちっとも退屈しなかった。
 ある晩は、お互いの腕だけを讃え合う。
 指先、手の甲、手首……。上腕の内側にキスして、また指に戻る。
 次の晩は、首。前から、後ろから。いろんな角度で、いろんな強さで、皮膚と筋肉を確かめてゆく。手とくちびるで。

 エクルーはサクヤの出すどんなサインも逃さなかった。ちょっとした口調の変化、ほおの色、急に体温が上がったり、また身じろぎする様子も。
 自分をどこまで受け入れられるか、注意深く観察してじっと待った。

「映画なんかだとね」とサクヤが言った。
「うん」
「お互いに見つめ合って、ベッドルームに入った途端に引き剥がすように服を脱いで、あっという間にベッドでごろごろ転がって、次は女の人が男の人の方に頭をのせて寝てるでしょう?」
「そうなの?」とエクルーがとぼけた。
「ものの5分で終わってしまうの」
「ふうん」
「本当はその間にいろんなプロセスがあったのね」
「まあ、省略してるんだよ、大人同士の場合」
「そんなに大急ぎでベッドに入ったことある?」
「ない。相手によるさ、そんなこと。自分から服を脱いで挑発してくるような女性と付き合ったことないし」
「確かに想像しにくいわね。サクヤがそんなことしてるとこ」
「想像しなくていいよ。それに……5分で終わっちゃったらつまんないじゃん。その後どうするんだ? 残り時間はジョギングでもするのか?」
 サクヤはくすくす笑った。
「確かにつまらないかも」
「それにサクヤは初めてなんだから、飛び切りの体験にしなくちゃ」
「……あなたが退屈してないか心配だったの」
「退屈してるように見える?」
 サクヤは微笑んで、「ううん」と答えた。
「じゃ、いいじゃないか」とエクルーがまた、首すじに顔を埋めてキスをくり返した。
「実際、俺は君に夢中なんだから」





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